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1 フランク・ハバート「砂の惑星」青のなかの青
「青のなかの青」とはメランジの長期間服用により青く変化した目。白目が青く、瞳はもっと青く。フランク・ハーバート「デューン・砂の惑星」より。
  
2 チャイコフスキー「弦楽セレナーデ
音楽界には、フルトヴェングラーを「フルベン」、メンデルスゾーンとチャイコフスキーを「メンチャイ」と省略する悪癖がある。一体どういふ言語感覚なのだらう。かうした言葉に遭遇した場合に、昔は「やんぬるかな」と言ふ適切な表現があつた。ぜひ復活させたいものである。

3 折口信夫「死者の書
「水底に、うつそみの面わ 沈透き見ゆ。來む世も、我の 寂しくあらむ」 折口信夫

4 武満徹・谷川俊太郎「系図~若い人たちのための音楽詩
ニューヨークフィルの委嘱で生まれた作品で、故武満が谷川俊太郎の詩を選び、それを英訳して曲をつけた。初演1995年4月20日。その翌年96年2月に彼は亡くなつた。私の持つてゐるのは日本語版の方で、語りは作曲者が選んだ日本人である。これを「とんでもないミスキャスト」と評する人物がゐて、その人は英語版の方が「ずっと自然なしゃべりに聞こえる」さうである。よほど英語に堪能なのだらう。

5 丘の上の悪魔ー三島由紀夫「奔馬」
「暗殺を罪悪なりというは、猶糞尿を臭穢なりというに同じ、何人も決して異存あることなく、之を論ずるの必要だにもなし、然れども糞尿は元と人体組織の上に於いて已む可らざるの結果に出で、如何にその臭穢を嫌うも、止めんとして止む可らず、吾人は恐る社会が暗殺者を生ずるも、亦如此きの勢いに非ざる乎」幸徳秋水「暗殺論」1901年、萬朝報

6 伊丹十三と大江健三郎「死んでゆかねばならぬ夜
大江健三郎はノーベル賞を受賞し、文化勲章受章を断つた反日家。その彼が、日本人に原稿を売って稼いでゐるのは矛盾してゐる。それはともかく、年金もつくことだし、文化勲章を受章しておいた方がよかつたのではないだらうか。彼の息子は障害者であり、「作曲家」をやつているさうだが、お金は多いにこしたことはない。「何時までもあると思うな親と金」といふじやないか。しかし文化勲章の趣旨からすれば、この受賞がなかったのはよかったのかも知れない。大江が「勳績卓絶ナル者」とはおもへないからである。

「文化勲章ハ文化ノ発達ニ関シ勳績卓絶ナル者ニ之ヲ賜フ」文化勲章令

7 タレント花月
謡曲の「花月」を下敷きにしてゐる。タレント子弟の安易な芸能界デビューとやらも困りものだが、問題なのは政治家の世襲的傾向であらう。かうした既得権化は社会の隅々に行きわたりつつある。現在の二十代前後の若者は、息苦しく感じないのだらうか。なんだかうまいぐあひに、飼い慣らされてゐるやうに見受けられる。かうして国としての活力が、徐々に失はれていくのだらう。  

8 梁塵秘抄「ほとけはつねに
プルーストの「失われた時を求めて」に、画家としてエルスチールの名前が出てくる。
サエキ…佐伯祐三、戦前パリに遊んだ画家。

9 泉鏡花「夜叉ヶ池」より
最初の一行は、たしか泉鏡花「夜叉ヶ池」だつたと思ふ。ほかの部分は、どの作品からなのかはよく憶えてゐない。紫陽花にも匂ひがあるといふことを教えてくれたのは、鏡花の作品であつた。  

10 村上春樹による「あちら側」
村上作品は図書館で立ち読みをする。当たり前のことを、意味ありさうに書いてゐるところが興味深い。英訳で読むといいのかもしれない。作品中に出てくるビールは、バドワイザーと推定する。読後感もバドワイザーを飲んだときと何となく似てゐる。セックスが句読点のやうに現れる。性交は彼にとって、コミュニケーションの一つの手段に過ぎないのだらう。

11 興福寺 須菩提像
「人生とは思い出の集積である。思い出を集めたものがひとりの人間の人生だ、というそれだけの、哲学だか文学だかわからないものである。私が消えるだけならたいしたことはないが、私が死ぬと、私のなかで私とともに生きてきた何人もの、すでに死んでいる人びとがもういちど死ぬ。今度こそ、ほんとうに死んでしまうのではないか?
死者ばかりではない。たくさんの、すでに失われた風景も、永遠に消えてしまうのだ。私事にすぎない、とも思えるが、私事にすぎない思い出の集積が、じつは歷史というものになるのではないか。だからなるべく大ぜいが、私なども含めて大ぜいが、書きとめるべきなのではないかと考えた」
吉田 直哉「敗戦野菊をわたる風」

松長幹太〈まつちょうみきた、千九百二十三年~千九百五十二年〉は、有名な「宮益坂夕景」や「求塚」を描いたが、死の直前、自らの手で焼き捨てて、二十九才の若さで病死した。 作者の吉田直哉氏は、道玄坂の「ゆきやなぎ」と言う喫茶店で、初めてその人物に出会った。
「ジャン・ルイ・バローみたいな顔をして、見るからに病弱の、小柄な男だった」


興福寺の須菩提像を見てゐるうちに、眩暈がして、あたりが暗くなつたと思つたら、川のほとりに佇んでゐた。此所は三途の川の賽の河原らしい。水に顔を映してみると、二十歳だつたころの自分の顔が、須菩提の姿になつて自分を見てゐる。途方に暮れてゐる。

遠くから音楽が聞こえてくる。歌声が近づいて来るやうだ。ドビュッシーの弦楽四重奏曲の、弱音器が奏でるメロディにのつて、いろは歌が聞えてきた。

うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす

12 塚本邦雄「還らざるべし」
「過去の助動詞『き』が幾度も出没する。過去に確にあつた事実を回想する『時』の助動詞が、彼のこの一聯中ほどふさはしいものも他にあるまい。技法鮮烈、獄中で鍛へたのか、修辞も間然とするところがない。だが、この佐々木悠二の、まさに血のしたたりのやうに鮮烈な作品群が、あまりにも迫真的であるゆゑに、一切かあるいは部分かが、中井英夫の演出であつたやうな気もする。勿論、証拠は十二分の事実であらう。中井英夫の創作人物であらうと、実在であらうと、この作品の迫真性の『美』は、いささかも変らぬ」

階段を一気に駆けあがつて今、高台にゐる。ここはリブルアーチ。海峡の町だ。見下すと青い海がひろがり、白い波頭がみえる。潮騒の音はここまでは聞えてこない。真青な空。白い雲が流れてゆく。全く鳥影のない世界だ。ここから北へ向ふと、ライドンの塔。厳しい戦いの予感がある。

〈どうだらう、そこの崖の一部が影になつてゐるが、そこをクリックしてみたら。もしかしたらこの場所から、あちらの世界への道が…、さうしたら人生をリセットして……〉

13 アンデルセン「雪の女王」
『あれはね、白いミツバチがむらがっているんだよ』と、年とったおばあさんが言いました。
『じゃ、あの中には、ミツバチの女王もいるの?』と、男の子はききました。この子は、本当のミツバチのなかには、女王バチのいることをちゃんと知っていたのです。
『ああ、いるともね』と、おばあさんは言いました。『女王バチは、あそこの一番たくさんむらがっているところを飛んでいるんだよ。みんなのうちで一番大きくてね、けっして地面の上に、じっとしてはいないの。すぐまた、黒い雲の方へ飛んで行くんだよ。冬の夜には、町の通りを飛びまわって、方々の家の窓をのぞいてあるくのさ。そうするとね、不思議なことに、そのまま窓ガラスに、凍りついてしまって、まるで花でも咲いたように、なるんだよ』
『ああ、それなら見たことがあってよ』と、ふたりの子供は口々に言いました。そして、二人にも、それがほんとうのことだということが、わかりました。
『雪の女王は、ここにはいってこられて?』と、女の子がききました。
『はいってくるなら、きてもいい!』と、男の子は言いました。『そうしたら、僕、熱いストーブの上にのせてやるんだ。そうすれば、とけてしまうよ』」翻訳・大畑末吉

圧倒的な存在感を持つゲルダの前で、すべての男はかうべをたれるだらう。また、カイとゲルダがうたふ賛美歌は、大畑末吉訳でなければならない。

〈バラの花 かおる谷間に〉
〈仰ぎまつる おさなごエスきみ〉

ついに私は、この世でゲルダと出会ふことができなかつた。いまは徒にいのちあるを嘆ずるのみ。

「凍りついた心は解けるんだって。その力をもっているのはゲルダなんです。なぜゲルダがもっているかっていうのは問わないんです。持っているんです。それはみんなの中に確実にある部分、世界の大事な一部だろうと思うけど、自分の中にあるのか、他人がもっているのか、あるいは自分の中にあるけど出口がないだけなのか」宮崎駿
新訳・ロシア版アニメ「雪の女王」の公開時、インタビューに答へて

14 プルースト「失はれた時を求めて」ーショパン「ピアノソナタ第三番」
誰でもそれぞれ自分の〈マドレーヌ〉をもつてゐると思ふ。以前の私のそれは〈誰が袖ふれし梅の香〉だつたが、〈かをり〉から〈音〉へ。いまでは、ショパンのピアノソナタ第三番、第一楽章の第二主題である。第一主題については、決然とした、投げやりな、堂々とした、悲壮感漂う、重々しく不安な、といつた、人によりさまざまな受け取り方がある。演奏者によつても違つてくるし、聞き手のその時の状態にもよる。だが、第二主題については、優美、甘美、爽やか、かぎりなく美しい、といふ印象に異論はないだらう。第一主題から第二主題に移行する時に、魂は高揚し、陶酔する。封印されてゐた心の間欠泉が解放される。それは時間を超越することであり、死に対する一瞬の勝利でもある。

プルースト〈私たちが解放した魂は死に打ち克って、ふたたび帰ってきて私たちといっしょに生きるのである〉

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