死んでいかねばならぬ夜

丘の上の悪魔   タレント花月
伊丹十三
私はただ静かな生活がしたかつた。本当に若かつた頃、われらの時代、大いなる日に、さう思つてゐた。こんな風に言ふと懐かしい年への手紙に聞こへるかな。
しかし私はその頃から壊れ物としての人間だつた。持続する志の、厳粛な綱渡りに見えた個人的な体験の後も、わが狂気を生き延びる道は見つからなかつた。それともただ同時代ゲームに揺れ動いてゐただけなのか。
「伊丹よ、死者の奢りだよ。遅れてきた青年よ。君はとうに死んでゐる」
下の方を覗くと、聞き覚えのある幽かな声が聞こえてきたやうな気がした。
「だれ、大江かい」もう一度屋上から覗こうとしたとき、また声がした。
「見るまえに跳べ!」
「ワーッ」というかすかな叫び声は、交尾期の猫の声に紛れて誰も聞いたものはいなかつた。
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