五味康祐「柳生武藝帳」

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柳生武芸帳

麝香 (一)
内庭から屋内に入ると其処が又、土間である。道路に面した方のは天窓が開いていたが、この土間には明かり窓もなく濕気と石の臭いが鼻孔を刺す。
仄暗さに目が馴れると、土間の奥は上がり框になり、其処に石像の如く動かぬ人物が座っていた。それが栖輕藤吉である。籐吉の前には爐があり、炭火が炟つている。お舜は惡びれずに籐吉の前へ獨り進み行って、
「奈良茂のお舜と申しますものじゃ、わたしらの石像を彫ってみて下され」
籐吉の瞼は眠ったように半眼にしか開かない。どれほど目を瞠ろうとしても、それ以上には落ち窪んだ瞼は開かないのである。眠そうで、どろんとした気力のない目である。
「そもじは幾つじゃな」と言った。
「二十三じゃ」
「寅か」
「五黄の寅じゃ」
皺の多い籐吉の表情は變らない。
「大久保様の使いの言葉では、男と夫婦の像と言うておられたが」
「亭主ならあれに居る」
「連れて来なされ」
お舜は後反つて鳶人足に合圖をした。鳶どもは足許に要愼しながら少しずつ戸板を運び入れて、上り框に卸した。
猿臂をのばし、座した儘で顔の白布をつまみ取ろうとすると籐吉の手を、ピシリとお舜は敲いたのである。こう言った。
「あとにしておくれ、鳶の者には見せとうない」
それから四人に向かって、
「お前たちは外へ出ておくれ」
そういうともう押し出すように四人の體を突いた。
「わ、わつしどもは…」
口々に何か言いかけたが、お舜の気性は知つているのだろう、やがて、籐吉へそれでもヒョイヒョイ叩頭して出て往く。
「さ、これじや」
お舜は千四郎の顔の白布を捲つた。

夕刻、仕事場に石を打つ鑿音が響き始めた。白布を取つた千四郎の顔を上から覗いて、
「お女中、支度をなされ。すぐに彫ろうでの」
一言、そう言うと籐吉は圍爐裏ぎわを立つた。それから内弟子を督勵して家の外に放つてあつた花崗岩を運び入れさせた。「稲田みかげ」と稱する最上質の御影石である。仕事場へそれが運び込まれたときには籐吉は既に土間で鑿と槌を把つて突立つていた。千四郎は土間の板壁に背を凭らせ上體を起こして座らされた。
「男がさきじや」
籐吉が仕事にかかって、終る迄、物を言つたのは遂にこの一語だけである。終始默々と槌を揮い、土臺から座高、腰、肩、項、頭と輪廓を彫つてゆく。お舜はその間、千四郎にかしずいて何かと身の世話をした。誰の目にもまことの夫婦もかほど睦まじくはあるまいと見えたという。
無言の籐吉に、千四郎も無言で對う。石像におのれの面影を留める行為は、死を覚悟しているからだろう。

麝香 (二)
千四郎の石像が出来上がったのは十一月も末に入つてからである。似ているといつた程度の物ではなく、餘りその面影の活々しいのにお舜は聲をのんで、實の千四郎をかえり見、石像に見惚れた。「これでよい」と素人目には見えてから、籐吉が鑿を全く手放すまでには尚十日餘を要した。
「腰が死んでいる」
そう言つて何としても満足しなかつたのである。

それから二日餘仕事場へ這入らなかつた。お舜が姿を消す籐吉のあとを追つて奥の間へ往つて、
「何故打つてくれぬのじゃ」
問いかけると、手枕で横になつていたのが、
「わしにも分からぬが、この儘には濟まさん」
氣だるそうに洩らした。彫ってほしいお舜より、彫りたい石工籐吉の意欲の方がはるかに烈しいのをお舜はハッキリと見たようにこの時、思つたのである。三日目に、昼頃籐吉がぬつと仕事場に遣つて来て、再び鑿を把つた。あとは一氣に彫り上げた。
お舜の像は半月を要しなかつた。面影は、實在のお舜よりは優しい淑やかな女に造られている。そういう出来上がりを誰よりも當の籐吉が満足に思つたようである。
「よい夫婦になろうに、十年先かのう」
彫りながら一度そんなことを呟いた。
「え?何というたのじゃ」
お舜は耳を欹て、
「わたしらは眞實夫婦になるかえ?」
と言つた。
千四郎の折と違つて、彼女の像を彫る間しばしば籐吉は獨りごとを呟く。
「この石には怨靈が憑くかも知れん。わしの鑿ではどうにも拂えん…」
うつつのように呟きつづけて石を削る日もあつた。お舜の像の出来上がるまで千四郎の傷は快癒しなかつた。

男女の像が出来上がると千四郎はお舜にこう言つた。
「わしは二十八年の生涯に女に心をうつしたことはない。籐吉どのはさすがは名工じゃ。わしのそなたへの懐いがこの像には通うて見える。江戸を發つたら、再び生きて戻れぬやも知れぬが、もし無事なれば必ずそなたを迎えに来る。何年先か知らぬが、その氣で待つておつてくれよ」
「……もう行くのかえ」
うなずいた。男女の像が、礎に据え並べられたのは冬の日が恰度没しきつた申の刻である。籐吉は痴呆のように完成したばかりの夫婦石を見戍りつづけて二人へは一顧だに與えない。
何處へ行くのか一言教えてくれとお舜は言つた。
「京じゃ」
言い捨てて跛を曳き曳き、暗い道路へ千四郎は姿を消した。

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