梁塵秘抄「ほとけはつねに いませども」 |
||
画家エルスチールは早めに床についた。灯りを消すとすぐ眠りに入りさうになる。それでゐて先程まで聴いてゐた音楽は、明け方の横雲のやうにその間も途切れてゐたのではないらしい。 「ほとけはつねに…なんと言つたか…あの若者の名は…」 きのふ訪ねてきた日本人の画家の名を思い出さうとする。 「さうだ、たしか…サヘキ、いやサエキ…か」 そのサエキは自国の古い歌謡を翻訳して聞かせてくれた。だうしてそんな話題になつたのか、よく思ひ出されない。 「そうだ、あの曲を聴いていて…」 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲嬰ハ短調を二人で聴いてゐて、そんな話題になつたのだつた。フーガ形式の第一楽章が始まると若者はすぐ、 「この曲を聴くと、何時も思い出します」 といつて、異国の十二世紀の歌を聴かせてくれた。 「ほとけはつねに いませども うつつならぬぞ あはれなる ひとのおとせぬ あかつきに ほのかにゆめに みえたまふ」 エルスチールは記憶を頼りに呟いてみる。 「ほとけはつねに、いませども、うつつならぬ…ぞ あ…はれ…」 かうしているうちに、またねむりにひきこまれてゆく。 |
||
home notes 2 gallery 2 |