月の光のしずかにすべりゆくとき、想ひがすべてのうへに在るとき、我が目には波はうなばらと映らず、森は樹々のあつまりとはみえず、天空をかざるは雲にあらず、峪や丘はもはや地のおきふしとはみえず、うつし世はうたかたの如、すべては神々のみたまふ夢のなごりなり。 シェーンベルク : Gurre-Lieder
2023.05.20「国の円寂する時」
西尾幹二「三島由紀夫の死と私」
「ドイツ人、フランス人、イギリス人は、それぞれの国の国民であることを超えたヨーロッパ人という意識がある。それはヨーロッパという外枠があるからこそ自国民を超えることができる。しかし日本人にそれはない。日本人が日本人を超えることができるような枠が、日本の外にあるだろうか」
ヨーロッパといふやうな便利な外枠は日本にはない。従つて今の自分達をを超へる枠は、自国の歴史に求める他ない。それは一国家一文明である日本の伝統、文化であらう。アジアとよばれてゐる地域で、ノーベル賞受賞者数を始め、ソフトバワーは他の国に抜きんでゐる。このことは日本の歴史、文化、伝統の賜である。しかし、自分の権利だけ主張し、自らに義務を課さない、大衆化した今の日本人には、それさへ気づかないやうである。
折口信夫「歌の円寂する時」
「歌を望みない方へ誘ふ力は、私だけの考へでも、尠くとも三つはある。一つは、歌の享けた命数に限りがあること。二つには、歌よみが、人間の出来て居な過ぎる点。三つには、真の意味の批評の一向出て来ないことである」
上記した折口先生の文章を援用すると、「この国の円寂する時」は、一つは、国の享けた命数に限りがあること、二つには、国民が大衆化したこと、三つには、正確、正当な歴史教育を疎かにしてゐることである。まともな自国の歴史を知らずして、どうして自国に誇りは持てるだらうか。
2023.04.16「〈四月物語〉余聞」
ジョン・レノン殺しのマーク・チャップマンが愛読した「ライ麦畑でつかまえて」といふ本を知つたのは、伊丹十三著「女たちよ!」のなかだつた。昭和四十三年の出版だから、ずいぶん昔のことになる。
巻末に「配偶者を求めております」とあつて、伊丹十三が自分の配偶者たるに相応しい女性に対する条件のひとつに、「サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が一番好きな小説で」といふ項目があつた。
どんな小説だらうと好奇心で、野崎孝訳・白水社版「ライ麦畑でつかまえて」を読んだが、あまり気に入らなかつたらしい。何故つて一度読んだきりだから。今でも本棚の隅にある。この文章を書くために、取り出して開いてみると「ライ麦畑」宣伝文が挟んである。
「現代アメリカのもつやりきれない状況を、一人の少年の無邪気で辛辣な眼を通して捉え、全米の若い世代の共感を呼んだベストセラー」とある。
サリンジャーがこの小説を書きあげたのは1950年。初版は翌年1951年である。その頃すでに「アメリカはやりきれない状況」にあつたのだらうか。人間はいつもその時その時を、やりきれない状況だと思つているのかもしれないが、信じられない話である。
今全世界ではポリコレ棒が振り回され、LGBTつて…何これ。ただ薄気味悪いだけ。アメリカの50年代はモダンジャズの全盛期であり、アメリカが世界で一番豊かな国だつた。
2023.03.13「It's bliss」
先月、バート・バカラックが亡くなつた。九四歳だつたといふ。美しいメロディ、個性的なリズム。一度聴いたら忘れられない、数多くの曲をありがとう。亡くなるのなら序に、私のなかのアルフィーも連れていつてもらひたかつた。そう彼に言ふと、
「何ていふことを。アルフィーは君自身じゃないかね。こちらに来るのなら独りできたまえ」
と言はれてしまつた。一言もない。そうだ、私があちらへ行くときには、バカラックの「プロミセス・プロミセス」をバックにするといいかも。何もかも振り捨て、全部チャラにして、そしたら恩寵につつまれて彼岸にいけるだらう。軽快なリズム、上昇する音階、妙なる喇叭の響きにのつて。
到着したら、背景の音楽が変る。フレディの「冬の物語」だ。
わたしは夢をみているのだろうか
これは夢なのだろうか
至上の愛
これは夢なのだろうか
至高の静寂と平和
静けさと至福
魔法のような空気につつまれて
この上なく荘厳な光景
息をのむような光景
この世界の夢は
あなたの手のとどくところにある
何もかも美しい
画に描いたような綺麗な空
山々は高く聳え
この世界が回って、回って、また回って
信じられない
恍惚のなか
これは夢なのだろうか
わたしは夢をみているのだろうか
ああ、至福の時よ
フレディの「冬の物語」は、彼が天国でみた光景を歌つた曲なのだ。だから聴いてゐると、心が穏やかになり、目頭が熱くなるのだ。