ユルスナール「ハドリアヌス帝の回想」

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回想

彷徨へる愛おしき我が魂よ
汝が客なりし我が肉体の伴侶よ
汝は今こそ辿り着かんとする
青褪め強張り露なるあの場所に
昔日の戯れも最早叶はで

皇帝アエリウス・ハドリアヌス

今朝、こんな考えが、初めて心に浮かんだー肉体、この忠実な伴侶、わたしの魂よりもたしかなこの友が、結局はその主をむさぼりつくす腹黒い怪物にすぎないのではないのかと。だがもうよい…わたしは自分のからだを愛している。このからだはあらゆるやり方でわたしによく仕えてくれたのだ。いまとなっては世話のやける彼の面倒を見ないわけにはいかぬ。
死は間近いが、しかし必ずしもすぐというわけではない。とはいうものの、やはり、わたしが、人みなが生を敗北として受け入れる年齢に達したことには変わりがない。余命いくばくもない、ということはなにものも意味しない。いままでもつねにそうであったのだし、われわれはみな限られた命数しかもたぬのである。しかしながらわれわれが休みなしにそのほうへ進んでゆく終焉というものを、はっきり識別させぬよう妨げているのは、場所や時間や死にざまなどの不確かさであるが、わたしの死病が進行するにつれてその不確かさも減少してくる。人はだれでもいつなんどき死ぬかわからぬものだが、この病人はあと十年も自分が生きられぬことを知っている。あと幾月生きるかと思うことはあっても、あと幾年かなどと思いわずらう余地はない。
エーゲ海の島々のあいだを航海する旅人が、夕暮れにたちこめるきらめく霧をながめ、少しずつ岸の輪郭を見分けてゆくように、わたしも自分の死の横顔を見定めはじめている。

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