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1 塚本邦雄「黄昏楽 考幻学的与謝蕪村ノート」

1745年、蕪村三十歳当時の作になるこの和歌挽歌は、今日なほ充分に新鮮である。
蕪村がこの詩篇のフォルム、文体、修辞にこめた創意と技巧の凄まじさは、尋常ではない。特に冒頭の緩徐調がクレッシェンドしつつ到達する一篇の要、その横笛の鋭い独奏を思はせる二行、〈雉子のあるかひたなきに鳴くを聞ば/友ありき河をへだてゝ住にき〉の秀抜さは、こゑをのむばかりである。二行は相並びながら、その行間には寂莫とした断絶がある。それは異次元を望みつつ背中合せに聳立した二行とも言へるだらう。しかもこの二行は、続く転調の二行をへだてて〈友ありき河をへだてゝ住にきけふは/ほろゝともなかぬ〉の見事なルフランと呼応するのだ。
彼を愛した年長の友への愛惜追慕といふ私的経験を計算に入れずとも、友なる男と雉子のこゑの錯綜、〈河をへだてゝ〉なる詩句にこめた万斛の涙は冴えざえと人の心を搏つ。〈河をへだてゝ住にき/けふはほろゝともなかぬ〉ではなくて、〈河をへだてゝ住にきけふは/ほろゝともなかぬ〉であることに、私は驚くのだ。詩の浄書された料紙の長さ、あるいは墨痕の配合に因るものとしても、蕪村の才は紛れることはない。同様の行取替へは、〈西吹風の/はげしくて〉の個所にも見られ、必ずしも一行の長さの均一化をはかつたものでないことは明らかだらう。巧みな修辞は各行に満ちてゐる。冒頭の一行の終りを〈こころ千々に〉でとどめ、〈みだれて〉とか〈かなしく〉などといふ無用の念押しをせぬ簡潔さは俳諧の手法としても、薄暮の空間に浮かぶかに、〈なんぞはるかなる〉と一行おいた手腕は、南画水墨の遠近法くらゐではかかりきれぬ鮮やかさだと言ひたい。
芭蕉のうちたてた金字塔を、その亜流が蚕食して、寂びと枯淡の形骸のみをつたへ、これのアンチ・テーゼとして、あるいは「眞の芭蕉に還る」の旗幟をもつことによつて俳諧復活を企て、新・感覚派の蕪村が光彩を放つ云々の、十把一紮げの常識的俳諧史は、今の私にとって関心事ではない。それのみか、事、俳諧においては、蕪村の印象はさながらの感受性、絵画の素養と才能を援用することによつての特異性、王朝趣味のロマネスク、といつた華麗な諸要素を束にしても、つひに俳諧の鬼、発句の魔、芭蕉のアンソロジーにはかなふべくもない。ただ一つ、「追悼曲」一篇は、当然芭蕉の描いた巨大で求心的な円の外にある。しかも、決して「春風馬堤曲」への架橋的意義などにとどまるべきものではない。おそらくは、作者自身すら予想も期待もしなかつた、畢生の秀作であり若書きの絶唱であつたことを、異論は承知の上で、強調するものだ。

2 山本健吉「普我追悼曲」一考

私があえて新訓と称したのは「去ぬ」をサンヌと訓んだことだ。これまで注者によってイヌかサリヌとかは議論され、おおむね「イヌ」に傾いていた。漢詩からこの新体の詩はヒントを受けたと思われ、わたしはむしろ朗詠めかして「サンヌ」と訓みたい。
以下口訳しながら大意を述べるが、詩歌の詞章は重層的表現をとることが多いのだから、おおよその大意として受けとってほしい。

一、あしたに君は去って行かれた。夕べの私の心は千々にくだけ、どうしてこうも遥かな方にばかり駆けるのでしょう。

二、君を思いながら、いくたびかともに歩いたあの岡のほとりを、この夕べも逍遥しました。岡のべは、どうしてこうも哀しいのでしょう。

三、岡には蒲公英が黄色に、薺の花が白く咲いています。けれどもそれも空しく、ともに見る人はもういないのです。

四、(子を思うて啼く)雉子がどこかにいると見え、ひた鳴きに悲しく鳴く声を聞いていますと、(まことの親のような)かけがえのないあなたがこの世にあって、かって小川一つ隔てて住んでいられたことが、しきりに思い出されます。

さて問題は次の一連で、終章を別にすれば、これだけが三行である。

五、「へげ」の煙がぱっとうち散ったと見ると、西吹く風が激しくて、小笹原、真菅原のどこにも、この煙は逃れようがなく、空へ消え失せました。

私はこの一連を、この哀歌の中の挿入句と取るのである。この三行だけは、現在の叙情でなく、友を岡のほとりで火葬に付したときの情景なのだ。その野原で屍を焼く煙が、「へげの煙」だろう。それは親しかった人との最後のお別れで、文字通り野辺の送りであり、最も悲しいときだ。その「へげ」は、おそらく「へぎ」であり、杉・檜などの板を意味するのだろう。火葬用の薪を燃え立たせる付け木の用をなして「はと打ちる」のが折板(へぎいた)である。

六、またの日、友の野辺送りをしたあの岡へもう一度やって来ました。私のかけがえのない友があって、川一つへだてて住んでいたと、繰り返し思い出されるのに、今日は雉子がほろろとも鳴きません。(一章をへだてて、「友ありき河をへだてゝ住みにき」が繰り返される。第一章の第一主題に対して、第二主題である)

七、朝にあなたは去って行かれた。夕べの私の心は千々に、何と遥かなあたりをさまようのでしょう。(第一主題のリフレーン)

八、私の茅屋の阿弥陀仏に、お灯明もさしあげず。お花も供えず。ぽつねんと佇んでいる今宵は、ひたすら尊く在りし日のあなたの姿が思い浮かべられます。
結局第五連を挿入句と見ることで、この詩に見事な劇中劇を見るような起伏を与えている。全体の地色は、陶淵明の「帰田園居」の影響が諸家に指摘されている。詞章や情景の影響もさることながら、全体に「人世ハ幻化ニ似タリ、終ニ当ニ空無ニ帰スベシ」といった思想的情緒が漂っている。蒲公英が黄に、薺が白く咲く岡のべの景には、加えて、幼少時代の毛馬堤への郷愁が重なっているようだ。朔太郎のいう「のすたるぢあ」であり、流離漂泊の思いが、その心をいっそう強く、激しいものにしているのである。

3 室生犀星「かげろふの日記遺文」 あとがき

原典「蜻蛉日記」にある町の小路の女の出現では、僅か数十行しか記述されていない。ある夜、道綱母が使いに夫の兼家のあとを尾けさせると、町の小路に住む女の所に通うていることが判明した。「言いようもなく心うく思ったけれど、どう手のつけようもない」と半ば諦め半ば打っ抛った気味であった。そのまま年が明け夏になった日記に、「得意絶頂の町の小路の女の所で子供を生む頃になってそのお気に入りの女を連れ、一車に相乗って京中を鳴り響かせて、聞き辛いほどの大騒ぎをしてわざと邸の前を通っている」と記している。

「結構ずくめに扱われていた町の小路の女は、子を産んでから厭気がさされていたが、その子が死んでから急に捨てられてしまった。この女は孫王の下賤な女に生ませた御子の落胤で、悪い素性の女なのだ。(生き永らえ、そして私が悩んでいるように、反対に苦しませてやりたい)と心の憤りが通じたものか、女は行方不明になりどこかでまた男と同棲しているとか、また、病気で死に果てたものか、消息を伝える者さえなかった」

と、「蜻蛉の日記」には簡単に結ばれている。私は私の生母がその夫の死後に、その邸から逐われて再婚したとか、病死したとかで消息不明になっていたことを、この町の小路の女のくだりを読んで、何物かに行き当たったような気がし、そこに彼女の若い日を思いあてることに、書き物をする人間の踴躍と哀れを感じた。
道綱母の苦痛も、私にはあまりにも判りすぎていたが、平安朝の丈高い草叢を掻き分けて見るには、墓所さえ失っていた町の小路の女の、短い生涯を見つめる私の目は決して離れようとはしなかった。
私はすべて淪落の人を人世から贔屓にし、そして私はたくさんの名もない女から、若い頃の救いを貰った。学問や智慧のある女は一人として私の味方でも友達でもなかった。ろくに文字を書けないような智慧のない眼の女、どこでどう死に果てたか判らないような馬鹿みたいな女、そういう人がこの「蜻蛉の日記」の執筆中に、机の向こう側に座って笑うことも話をすることもなく、現れては朦朧たる姿を消して去った。
私を教えた者はこれらの人々の無飾の純粋であり、私の今日の仕事のたすけとなった人々もこれらの人たちの呼吸のあたたかさであった。私が時を隔てて町の小路の女の中の、幾らかでも栄えのある生涯の記述をすすめたのも、みな、この昔のすくいを書き留めた永い願いからだった。

町の小路の女が行衛不明になったということの、その行衛の判らない所に、私の心はまた別様の松風を聴き入った。いくら聴いていても夜明けのないような皓々たる奏では、それが町の小路の女の本体であることを覚えると、私の心は沈黙を破って言葉が出ない状態であった。あわれということはこういう人の上にあって、紫苑の上すなわち蜻蛉の日記の筆者にはなかったのだ。千年の後のある日の女も、まだ街の小路の女のみちを歩いている。逢おうと思えばいつにでも、誰とでも、そのような人に会えるのだ。だが、蜻蛉の日記の筆者にはどれだけ逢おうとしても、逢うことはなかった。その人の人柄はすでに逈かに打ち絶えていたからである。
私自身の解決でも、町の小路の女が兼家から去り、忠成にも行かず結局行衛も判らなくなるという運びについては、結局、そうならざるをえない道が、彼女の行手に白じらと長く続いて見えたとでも、言うより外はない。
ただ、一つのすくいは、、彼女がその後の日に不倖でなかったような気がするのだ。
われわれはいつも面白半分に物語を書いているのではない。殊に私自身はいつも生母にあくがれを持ち、機会を捉えては生母を知ろうとし、その人を物語ることをわすれないでいるからだ。

4 映画「四月物語」

この映画のヒロイン卯月には意外なモデルがいた。それは、ジョン・レノンを殺し、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」にのめり込んでいたマーク・チャップマンである。

「ライ麦畑って言うと思い出されるのが、ジョン・レノンを殺した男で、『リリイ・シュシュのすべて』の冒頭でもちらっと出てくるんですけど、マーク・チャップマンという男が、ジョン・レノンを殺害して、そのとき持っていた本が『ライ麦畑でつかまえて』。
チャップマンのルポルタージュだったんですよ。ハワイにいて、島から出てきて、ニューヨークのダコタハウスの前に二週間くらい張り込んで、最後殺害に至る、その妙な一週間二週間の彼の行動が、すごく映画的で、こういうものを映画にしたいなと思った時期があったんですね。
最初その発想から色々考えてて、シミュレーションしていくなかで、これ殺人事件じゃなくて、もっと普通の日常話でやったらどうなのかな、と思って思いついたのが、『四月物語』なんですよ。
あの松さんがやった女の子のモデルはチャップマンなんですよ」

岩井俊二と新海誠の対談より

5 宮澤賢治「業の花びら」

今年三月にNHKで「業の花びら〜宮沢賢治父と子の秘史」が放送された。そのなかで、花巻市の「羅須地人協会」跡地にある「雨ニモマケズ」の詩碑建立の経緯が述べられてゐる。

厳父政次郎は「あれを建てる時、碑文選定の際、私は『業の花びら』をすすめたが、難しいということで『雨ニモマケズ』になってしまった」と語つてゐたといふ。
賢治の創作活動を認めてゐない政次郎が、「業の花びら」を提案したのは何故か。「業の花びら」は、賢治が亡くなつて二年後、昭和十年に雑誌「四季」に掲載されてゐる。政次郎はそれで「業の花びら」を知り、「業」といふ言葉に何か感じることがあつて、碑文選定の折りにすすめたのだらう。

昭和二十八年、NHKの吉田直哉氏は、岩手県花巻の宮沢賢治の生家を訪ね、ご両親に賢治についての話をうかがつた。

「驚いたのは、死を目前にして、賢治が自分にとって一番大事なはずの原稿について、両親に言い残した言葉が、全く正反対だというのが分かったときである。
政治郎さんは、死の直前にその堆い原稿の山をさして、『これはどうする』と賢治にたずねた話をしてくださった。
『もし賢治が、本にして出してくれとでも言ったら、最後の一喝をくらわせようと心にきめておりましたじゃ。しかし賢しゅは《それらは、みんな私の迷いの跡だんすじゃ。どうなったって、かまわないんすじゃ》と答えたので、私はお前もなかなかえらい、とほめました』
そのあと、父が下に降りていってから賢治は、弟の清六さんをみて、
《おれもとうとうおとうさんにほめられたもな》
とにっこり笑ったそうである。その清六さんと母親は、無論その言葉が賢治の真意ではないのを知っていた。だからその時の録音でもイチさんは、
『…そんたな!そんたな無情なこと…。賢さんは私に、《これらの童話は、ありがたいほとけさんの教えを、いっしょけんめいに書いたものだんすじゃ。だから、いつかはきっと、みんなで、よろこんで読むようになるんすじゃ》と胸はっていいましたす』
と強く言った。昭和三十年といえば、もう日本中が宮沢賢治の名と偉大さを知っていた時であったが、父君だけが、彼の創作活動を認めていないのである」
吉田直哉「夢うつつの図鑑」

6 内田百閒「猫が口を利いた」

山口瞳
「内田百閒を論ずることは不可能である。すぐに掴まえられるような尻尾は、どこにもない。これはもう、おそれいって平伏するよりほかにない。楽しんで読ませてもらう以外にはない。
論ずることが不可能ならば、エピソードで綴るという手がある。しかしながら、内田百閒論は絶無であるのに、エピソードということになると、これはむしろエピソードだらけという人であって、私の出る幕はない」

三島由紀夫
「もし現代、文章といふものが生きてゐるとしたら、ほんの数人の作家にそれを見るだけだが、随一の文章といふことになれば、内田百閒氏を挙げなければならない。たとへば「磯辺の松」一篇を読んでも、洗練の極、ニュアンスの極、しかも少しも繊弱なところのない、墨痕あざやかな文章といふもののお手本に触れることができよう」

「猫が口を利いた」は、百閒最後の単行本「日没閉門」の、巻末におさめられた作品。百閒の作品を採り上げやうと、随分迷つた挙げ句、一時は「件」にする心算でゐたが、この作品に落ち着いた。

7 小泉信三「海軍主計大尉小泉信吉」

信吉戦死の報が來たのは、昭和十七年十二月四日夕のことである。五時頃、私は外出先で家からの電話をきき、すぐ帰宅して電報を見た。

コイズミカイグンシュケイチウイ一〇ツキ二二ヒミナミタイヘイヨウホウメンニオイテメイヨノセンシヲトゲラレタリトリアヘズゴツウチカタガタオクヤミモウシアグナホセイゼンノハイゾクカンセンブタイトウハキミツホジゼウオモラシナキヨウイタサレタシカイグンセウジンジキヨクテウ

(小泉海軍主計中尉十月二十二日南太平洋方面に於て名誉の戦死を遂げられたり。取り敢へず御通知旁々御悔み申上ぐ。なほ生前の配属艦船部隊名等は機密保持上お漏らしなきよう致されたし。海軍省人事局長 )

信吉の一生は、平凡な一生であつた。彼れは平凡な家庭に生まれ、平穏無事に成長した。父も祖父も伯叔父従兄弟も学んだ同じ学校に入り、小学、中学、大学と一貫してそこで教育せられ、卒業して志望した銀行に採用せられ、図らずも少年の日の夢であつた海軍士官となつて第一線に戦つた。無事も無事、平坦極まる道を歩んだ男であつて、最後の戦死そのことが彼れの生涯の恐らく唯一つの事件であつたらう。彼れに如何なる特徴があつたか。親の私には殆ど語ることができない。ただ父母同胞親戚友人を愛し、その人々に愛せられ、少し許り学問を好み、同じく少し許り絵画音楽を愛し、子供のときから海洋、海軍に対する異常の憧憬を懐いたといふだけの青年であつた。若し恒の世に生きたら、彼れは日々銀行の勤務に力め、余暇を以て読書し、出來れば著述し、妻を娶り、父となり、運が好ければ順当に昇進して老境に入るといふ一生を送つたであらう。その信吉といふ男が、南太平洋上に敵弾に中つて艦橋に倒れるとは、実に思いもかけぬことであつた。
ー略ー
親の身として思へば、新吉の二十五年の一生は、やはり生きた甲斐のある一生であつた。新吉の父母同胞を父母同胞とし、その他凡て凡ての境遇を境遇とし、さうしてその命数は二十五年に限られたものとして、信吉に、今一度この一生をくり返すことを願うかと問うたなら、彼れは然りと答えるであらう。父母たる我々も同様である。親としてわが子の長命を祈らぬ者はない。しかし、吾々両人は、二十五年の間に人の親としての幸福は享けたと謂い得る。信吉の容貌、信吉の性質、そべての彼れの長所短所はそのままとして、そうして二十五までしか生きないものとして、さてこの人間を汝は再び子として持つを願うかと問はれたら、吾々夫婦は言下に願うと答へるであらう。

小泉 信三、明治21年5月4日 - 昭和41年5月11日。
経済学博士にして、昭和8年から昭和21年まで慶應義塾長。東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(後の平成天皇)の教育の責任者となる。美智子妃の実現に尽力。

8 小泉信三「海軍主計大尉小泉信吉」後記

あとがき   和木清三郎

佐久間象山の書が掛かっている炉のきってある部屋に通されて、私は横山大観と会った。不忍池を前に見る池之端の家だった。
小泉慶應義塾々長の子息海軍主計大尉小泉新吉君が、出征中南太平洋方面で戦死された。その伝記を塾長が書いて出版されるから、御多忙中誠に恐縮ですが、巻頭に絵を一枚描いてほしいと申出たのである。
「絵はいろいろ頼まれるが、無料で描けというのは珍しい」大観はそういってジロリと、私の顔を見て笑った。ややあって「よろしい、描きましょう。出来たらお知らせする」私は改めてお礼をいって丁寧に頭を下げた。
大観の孫がその頃、幼稚舎に通っていることを、しばらくして大観はポツリ一言いわれた。
「小泉さんにも会ったことがある」立派な人だとも付加えた。
それから、一ヶ月近くもたった頃、「絵ができた、取りに来てくれ」という葉書が、横山家執事から来た。
横一尺五寸縦二尺くらいの紙本一パイに、群青で日ノ出の富士の大空に聳えている姿が描かれてあった。
間もなく、私はシナに行った。「海軍主計大尉小泉新吉」は、私の不在中に出來る筈になっていた。もう、印刷用紙も不自由になっていたが、斤数のあるいい用紙を十分用意しておいた。今から思うと、戦争は最後の段階に追い込まれていた。そして、間もなく印刷所が爆弾で横山大観の絵と共に焼けたということは、後で知った。

9 ユルスナール「ハドリアヌス帝の回想」

「わたしが千九百二十七年頃、大いに傍線を引きつつ愛読したフロベールの書簡集の中に見出した、忘れがたい一句、ー『キケロからマルクス・アウレリアスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストは未だいない、ひとりの人間のみが在る比類なき時期があった』。わたしの生涯のかなりな時期は、このひとり人間のみーしかもすべてとつながりをもつ人間ーを定義し、ついで描こうと試みることに費やされた」 作者による覚え書き

マルクス・トゥッリウス・キケロ(ラテン語: Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年1月3日[1] - 紀元前43年12月7日[2])は、共和政ローマ末期の政治家、弁護士[3]、文筆家、哲学者である。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス(古典ラテン語:Marcus Aurelius Antoninus [notes 1]121年4月26日 - 180年3月17日[3])は、第16代ローマ皇帝である。五賢帝最後の皇帝。

「五賢帝は、その後継者に比較して穏健な政策によって知られる。時期としては紀元96年のドミティアヌスの死から、紀元180年のコンモドゥスの登位に至る時期を指し、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの5人の皇帝が該当する。また、トラヤヌスの統治時代がローマ帝国の領土最大期だった」

ネルウァ(Marcus Cocceius Nerva)
トラヤヌス(Marcus Ulpius Nerva Trajanus)
ハドリアヌス(Publius Aelius Traianus Hadrianus)
アントニヌス・ピウス(Titus Aurelius Fulvius Boionius Arrius Antoninus Pius)
マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus)


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