山本健吉「普我追悼曲」一考

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北寿老仙

「普我追悼曲」一考

蕪村がまだ宰鳥と号していた寛保二年(一七四二)、二十七歳の若年、江戸を立って下総の国結城に赴き、砂岡雁宕を頼った。雁宕は蕪村とともに早野巴人(第一世夜半亭)門の高足で、巴人は享保二年に死んだので、蕪村は故郷結城の旧家に帰臥していた雁宕を頼って行ったのである。
たまたまその地には、其角門で巴人・蕪村とも親しかった早見晋我(一六七一〜一七四五)が、酒造業を営み、小川を隔てて棲んでいて、三、四年のあいだ風交が続いた。だが延享二年一月二十八日、晋我は七五歳でなくなった。その時仏前に捧げた追悼の和詩がこれである。前にもあとにも類例のない新体の抒情詩だから、求められてというより自発的に、想の激するままにつらねた挽歌に近い。漂白の旅中にあって、悲しみの詞章が堰を切って奔り出た観がある。
その作品は、そのまま結城に埋もれていた。寛政五年(一七九三)といえば、蕪村の没年(一七八三)をすでに十年過ぎているが、晋我五十回忌の追善に、二世晋我を名のる嗣子桃彦が編んだ『いそのはな』に、初めて紹介された。題は『北寿老仙をいたむ』で、『晋我追悼曲』とは、潁原退蔵が『蕪村全集』で『春風馬堤曲』に対して新しく名づけた名が、今日通用しているのである。八聯に分けたのも同様。明治大正の新体詩と較べても、あまりに斬新で、時代にさきがけていたことが、あやうくこの絶唱を湮滅せしめるところだった。『庫のうちより見出づるまゝ右にしるし侍る』と、編者の附記がある。北寿とは晋我の世を譲ったあとの寿号である。

北寿老仙をいたむ

君あしたに去(さん)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる

君をおもふて岡のべに行(ゆき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき

蒲公(たんぽぽ)の黃に薺(なづな)のしろう咲きたる
見る人ぞなき

雉子(きじ)のあるかひたなきに鳴くを聞けば
友ありき河をへだてゝ住にき

へげのけぶりのはと打ちたれば西吹風(にしふくかぜ)の
はげしくて小竹原真(をざさはらま)すげはら
のがるべきかたぞなき

友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ

君あしたに去(さん)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる

我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごと彳(たたず)める今霄(こよひ)は
ことにたうとき

釈蕪村百拝書

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