室生犀星「かげろふの日記遺文」

北寿老仙 c r
かげろふの日記
ある日、兼家が外出の折り、何気なく手筥のふたからはみ出した、文らしい紙の折畳みを見つけ、べつに夫が文を書く用向きもない筈なのにと、手筥のふたを取って見た。それは明らかに誰かよその女におくる文で、中の様子は暇を見つけようとしているが、なかなかに暇は見つからない、が、私の心には変わりはないからそのつもりでいてくれという意味であった。私の永い間の妊娠のものうい日々に、よその女に眼をやり文の様子だともはやただ事ではない様子であった。紫苑の上は手も指も震え、息もみだれて来た、時姫様があられる上、私という女がいるのに、また、別の一人の女が現れてきたのである。三つの黒髪がそれぞれ險しく聳えて見え、その真中にいる私という黒髪のつやは、通綱が生まれてから、つやを失うて来たのか、と紫苑の上はしかし認める文だけには、自分を失わずにつとめた。「よその女におあげになる文をみると、もう、私のそばにはいらっしゃらないのでしょうか」と、やっとの思いでこころを抑えた。
そのあげく、三日も続けていらっしゃらない日の後、やっとお見えになると言われた。
「薄情なふりをしてあなたの気持ちを試してみていたのです。そういう気になることは辛いものだ」
と、私の機嫌を取っても落ち着かず、夕暮れになるのが待ち遠いように焦っていらっしゃるのが、よく判って来て、それがかえって居耐らなかった。孰方かにお出かけならば、お出になるがよいと私は久方振りの夕映えが松の梢に透くのを、賑やかに見やった。はたして兼家はもう何も抑える気も、見せていられない風に立ち上がった。
「ちょっと脱けられない用事があるので」
「お夕刻なのにお過ごしになってからに、なさいませ」
「いやすぐに戻ってくるのだ」
兼家は邸を出てゆき、停める手だてもなかった。この間の文の様子がひらめいて、その女の許に行くことはあまりに判然としていた。紫苑の上はいつになく勢い込んで、仕えの女の中でも小柄で、機転の利く小弓というのを呼び寄せていった。
「殿のあとを尾けるよう」
「はい」
「見え隠れに築地の塀にそうて、行きてたもれ」
「どこまでも尾け参らせます」
「しかと邸の中におはいりになるまでお見とどけ申し、邸を取りちがえてはなりませぬ」
「はい、では参ります」
「町の小路の女が許でありましょう。あのあたりの夕は人通りも途絶えていよう」
仕えの女は去った。夕映えは地を払って空にもどり、夕餉も取らない紫苑の上のそばに灯火が点けられた。いやな一ときの悶は続き、母乳はふいにとまってしまった。
小弓は間もなく戻ると、あおざめた顔色で、町の小路の暗さをのべた。
「町の小路のお邸におはいりになりました。わざと表門からではございません。それも、たびたびのお運びらしく思われました」
「迎えの女の顔は」
「ただ月のように美しい方で、それもお若くあらせられる為でございましょう」
「お幾つぐらいか」
「十九くらいに見うけられました。燈びのあかりではよく見えませぬが」
小弓は去り、紫苑の上はまた一人になった。ここまで来ると何の修正も、むだな気がし、そして趁い詰められている処は、世上にありふれた妬みと悩みしかなかった。しかも、これら二つのものを上品振って上から見下ろしている訳にも行かないとしたら、その渦の中に捲きこまれていなければならぬ。私はいまこの中にいるのだ。不倖というものは私を避けて通ることを、遠い幼い日にそう信じてみたものだが、それは全く酷いくいちがいをいまの私に与えた。紫苑の上は睡ることのできないままふと、夜のあかりに誘われた夜泣蝉の幾声かを聴いて、耳を立てた時であった。表門を叩く音が聴こえ、夫が約を踏んで見えたことを知ったが、黙って次の仕えの女に声もかけなかった。なお、激しく扉を叩いて来たが、やはり黙っていた。仕えの女がそのままに打棄って置くこともできないので、静かな声で聞いた。
「表の門はいかがいたしたら、ようございますか」
「そのままにして置きなさい」
間もなく兼家はなおも、ほとほと叩きつづけたが去っていった。町の小路の女の許に去るよりほかに、行きようもなかったであろう。翌朝そのままにして済まされずに踏みを持たせた。
「嘆きつつひとりぬる夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る」
と記して、わざと色の褪せた夏菊にさしただけだった。
折りかえして返事があった。
「槇の戸はなかなかに開きにくい、それに夜はなかなか明けぬ」
と何気ないふうに、書きながしているのが心のほどが見え、瞞すならもっとうまく、私を苦しめないでくれないものか、と、弱りはてた私も、心がしじゅう転んで歩けぬようになっていることを知った。心というものは肉体は持っていないが、この大事の前では立って歩けぬことで、心にも形があることを、その悲しみとともにさとることができた。
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