内田百閒「猫が口を利いた」

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猫が口を利いた

内田百閒「猫が口を利いた」

足の片方が悪い。うまく使ふ事が出來ないので、その爲全身に影響してからだを思ふ樣に動かすことが困難である。結局年がら年ぢゆう寝たままと云ふ事になる。
その寝た儘の寝床に猫がゐて、別に邪魔でもないが、何かしてゐる内に、猫が姿勢を硬直させた。こちらの經驗で、猫は小便をしようとしてゐるのだと云ふ事がわかる。困つた事だと思ふ内に果たして、ジヤアと小便をしてしまつた。
これは實に困るので、こちらのからだは思ふ樣に動かないし、そこいらが濡れてしまつて、どうしていいかわからない。枕もと、寝床のわきには、ちり紙がたくさんに用意してある。猫が小便するかと思つて備えたわけではないが、寝たままでゐれば何かと紙のいる事が多い。
ちり紙もいろいろ有るが、さう云ふ風に使ふ紙は、家内があらかじめそろへて、切つて用意してくれてゐる。その紙の切れ端、始末の悪い千切れ端などで、猫の不始末を處理しようと思ふけれど、中中うまく行かない。紙が足りない。こちらは寝たままの仕事なのでじれつたい。
 しやうがないな
とつぶやいたら、足の方で何か云つた樣な氣がする。
 おや
と思つた途端、頭から水をかぶつた樣な氣がした。
 こらツ、何か言つたか
 言つたよ
コン畜生め、と思へども、こはくて堪らない。どうしていいか、わからない。猫が私の足もとで、口を利き出した。
「言つたよ。どうしたと云ふんだ」
「騒いだつて仕様がない。手際よく始末しておけ、ダナさん」
猫は足もとで、もそもそ動いてゐる。
猫の云ふ事は割にはつきりしてゐて、何となく聞き覺えがある樣な調子である。
「脚がわるいと云つて、かうして寝てばかりゐれば、いつ迄たつてもなほるわけはないよダナさん。人の言ふ事を聞いて、なほす樣に心掛けて、歩け出したら外へ出掛けなさい、昔の樣に」
気分が惡くて堪らないので、寝た姿勢の片手をあげて、シヤムパンを飲まうとした。そのシヤムパン・コツプを持つた私の手を猫が、例の猫の手の柔らかい手先で、いやと云ふ程強く引つぱたいたから、さつきの小便ではなく、又そこいらが一ぱいに濡れてしまつた。
「何をする」
「猫ぢや猫ぢやとおしやますからは」
「どうすると云ふのだ」
「ダナさんや、遊ぶのだつたら、里で遊びなさいネ」
「どこへ行くのか」
「アレあんな事云つてる。キヤバレやカフエで、でれでれしてたら、コクテールのコツプなど、いくらでも猫の手ではたき落としてしまふ。ダナさんわかつたか」

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