notes14

1 ルイス・カーンと廃墟
「『無限定空間』、あるいはミース・ファン・デル・ローエの言う、『ユニバーサル・スペース』という考え方は、カーンにとっては全く受け入れ難いものだった。そもそも、限定なしの空間などというものは、建築において考えることすらあり得ないものだった。自己を中心にして果てしなく広がる空間に、限定をあたえることが、建築の出発点であり、始まりに他ならないからである」
香山壽夫「ルイス・カーンとは誰か」より

カーンはデザイン会議のために1960年来日し、滞在中京都において茶屋遊びまでしてゐる。着物に丹前姿の写真が残つてゐるが、伝統的な日本建築をじつくり見る機会など無かつたであらう。たとへ丹念にみる時間があつたとしても、以上の文章を読む限り、日本建築を受け入れたとは思へない。彼が桂離宮や数寄屋建築の座敷に座る。障子が開け放たれる。障子の外は廊下、濡れ縁、その先に庭があり、低い築地塀の向かうには山並みが見へる。いわゆる借景である。彼はこれをどう感じるか。これこそ「無限定空間」ではないか。
私は彼の設計したエシェリック邸や、フィツシャー邸などが大好きだが、実際に住んでみたら、かすかな違和感を感じるだらう。それは廃墟のにほひと言つてもいい。これは彼が基本的には石の文明の人といふことに由来するのであらう。「うっすらと昼の日本」A.マルロー、「竹林の中の薄明」山本七平、の日本人には、彼の建築はあはないのだらう。それとも彼の天才は機会を与へられたら、それを克服できたのだらうか。最後にもう一度カーンの発言を。

「静かな廃墟は、かってそれが、誇り高き建築として生まれたその精神を、再び表す。精神より生まれつつある建物は、完成したとき以上にすばらしい。その精神は若々しく、自らにならんと切望している。それは、自由であり、応ずる義務も負っていない。完成して建ち上がった建物は、空間は曲げることの出来ない構造の内に封じ込められている。そのくびきは、用途という義務であり、それに応ずることは待ったなしである。しかし用務から解放された、静かなる廃墟は、野の草木がその周りで楽しげに戯れることを喜び、その姿はまるで、その衣の裾に子供がすがるのを喜ぶ父親のようだ」

ベートーベン「バイオリン協奏曲〜第二楽章」
フィッシャー邸の冬の日の当たる窓際のベンチには、この曲が似合ひさうだ。

2 塚本邦雄「煉獄の秋」
アカショウビンの声は聞きおぼへはないが、近縁のカワセミの声なら昔、子供時代に聞いたことがある。「燃ゆるわが身」の青春が過ぎ去つた時、かつてカワセミがゐた川へいつてみたことがあつた。子供たちが水遊びに真夏の日を過ごした深い淵は見る影もなく、雑草や雑木に覆はれ、近づくのもためらはれた。見てはならないものを見た思ひに駆られ、以来二度とその場所に近づいたことがない。
「何もかにもがなんで決まりきったように消えてなくなるのだろうか」T.カポーティ

アカショウビン(赤翡翠)は、森林に生息するカワセミの仲間で、日本では夏鳥として見られる。体長は25cm位。和名の通り体の大部分の羽毛が赤褐色だが、腰は水色で、飛んだ時はこの水色がよく目立つ。くちばしと足は赤く、目は黒い。「Wikipedia」より抜粋

3 スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」
ゼルダとスコット夫妻の眠る墓の墓碑銘に「グレート・ギャツビー」の最後の一節が刻まれてゐる。

SO WE BEAT ON BOATS AGAINST
THE CURRENT,BORNE BACK
CEASELESSLY INTO THE PAST

「ディープ・パープル」1939年、ヘレン・フォレスト唄、アーティ・ショウ楽団。

Through the mist of a memory you wander back to me.

「スター・ダスト」と共に、当時のアメリカ国民の愛した歌。

When the deep purple falls over sleepy garden walls
And the stars begin to flicker in the sky
Through the mist of a memory you wander back to me
Breathing my name with a sigh
In the still of the night once again I hold you tight
Though you're gone, your love lives on when moonlight beams
And as long as my heart will beat, lover we'll always meet
Here in my deep purple dreams
Here in my deep purple dreams

4 アントニオ・カルロス・ジョビン
あなたは今では思つてゐるだらうか。「かうなることが一番よかつた」と。
あなたのためにも、私のためにも。
あなたは思つてくれてゐるだらうか。今では、「人生は学校のやうなもの」と。
あなたは身につけてゐるだろうか。「苦しまずに生きるすべ」を。

あなたと別れて、私は都会へでて行つた。一枚のアルバムをかかへて。そして、ひと仕事終へて家に帰ると、マティーニにをあじわいながら、いつもこのアルバムを聴いた。しかし今ではかうして故郷にまひもどつて、ふだんはこれらの曲をあまり聴くこともない。
でも、あなたならきつと、身につけてゐるだらう。「苦しまずに生きるすべ」を。

スタン・ゲッツ(ts)、アントニオ・カルロス・ジョビン(p)、ジョアン・ジルベルト(g,vo)
トミー・ウイリアムス(b)、ミルトン・バナナ(ds)、アストラッド・ジルベルト(vo)

5 立石二郎「てりむくり」ー日本建築の曲線
歌舞伎座、銭湯の正面入り口の屋根、神輿や霊柩車の屋根、これらが「てりむくり」に基づく形式であり、いわゆる「唐破風」といふ。日光東照宮には四方軒唐破風門の本社の正門がある。唐破風というが、シナとは何の関係もなく、日本独特の形式ださうだ。私はこの唐破風がキライで、特に唐破風のすぐ後ろに千鳥破風が控えてゐる眺めは最悪に感じられ、だうしてああいふ形が生まれたのか疑問に思つてゐたが、立石二郎「てりむくり」を読んで得心がいつた。ただし、ルース・ベネディクトと「てりむくり」を結びつけた部分は、いささか強引のやうな気がする。しかし「てりむくり」が「天皇と将軍」と言ふ日本独特の政教分離にまで及ぶと考へれば、キライであつても改めて唐破風を見つめ直さなければなるまい。

6 ラヴェル「子供と魔法」
《オペラのあらすじ》
宿題をしない子供は母親に怒られたので、腹を立て、部屋の家具や自分の持ち物などを壊してしまふ。それで壊されたポット、茶碗、椅子、時計たちが子供に仕返しを始める。寒くなつてきたので、子供は暖炉の前に座る。すると火が「おまえは悪い子だから、燃やしてやる」と脅す。子供が読んでゐた絵本のお姫様が「あなたのせいで呪いをかけられてしまつた」と言ふ。子供は王子様の代はりに助けやうとするが、お姫様は連れ去られてしまふ。庭では、木が、切られた傷が痛むと子供に文句を言ふ。蛙や鳥、虫、その他の動物も少年にいじめられたと合唱する。大騒ぎの最中にリスが怪我をする。改心した少年はリスに手当てをしてあげる。その様子を見て、少年は優しい子なんだと動物達は気付いて、気を失つている少年の代はりにママンを呼んで、部屋まで運んであげる。気が付いた少年はそばにいる母に抱きつく。

「子供の短いアリア《薔薇の芯よ》(Toi,coeur de rose)のおとぎ話的な雰囲気は、彼女のいたいけな純潔さとしとやかな美しさをあらわしていて、きわめて感動的だ。事実、これを書いた作曲家は多くの友人が指摘するように、少年時代の高揚状態を何らかの方法で保っていた」
ベンジャミン・イヴリー「モーリス・ラヴェル ある生涯」

ストラビンスキーはラヴェルのことを「スイスの時計細工師」と評したが、彼はこのオペラを聴いたことがなかつたのであらう。

7 ヒュー・ロフティング「ドリトル先生航海記」
「ドリトル先生航海記」動物の言葉を解するドリトル先生が、助手のトミー・スタビンズと船に乗り、様々な冒険の後、最後はおおガラス海かたつむりに乗り、パドルビーまで帰つてくる物語。

この本を数十年ぶりに読み返して、冒頭の1ページとその次のページの挿絵以外は、ほとんど憶えていないのに唖然とした。小学生の時に何度も読み返したこの物語を、こんなにもきれいに忘れてしまふものか。それでも読み進むうちには、思い出される場面が所々出てきて、懐かしかつた。そして、あわせて呼んだ、南條竹則「ドリトル先生の英国」に多くの事を教へられた。
ドリトル先生の名前は、原語では「John Dolittle」であること。「ドゥーリトル」では子供には発音しにくからうと、訳者の井伏鱒二が考え「ドリトル」に縮めたこと。「Dolittle」は「do little (為すこと少し=ろくでなし)」の意味を含んでゐること。珍獣のオシツオサレツは、原語では「Pushmi-pullyu」すなはち、「Push me-pull you 君押さば我引かむ」であること。それを井伏鱒二は「オシツオサレツ(押しつ・押されつ)と訳したこと、等。著者には感謝したい。

先日「グレン・グールド 27歳の記憶」というDVDをみて、カナダ、シムコー湖畔にあるグレン・グールドの住まゐの隣人が、ドゥーリトルさんであることを知つた。ドゥーリトル夫人は独身のグールドのために、時々家事をしてあげてゐた。彼は現地では全く無名の人として過ごしてゐたといふ。なおこちらのドゥーリトルさんは「Doolittle」と綴る。

8 ウイリアム・モリスー田園住宅
「ストーニイウェル・コテージ」1899年、アーネスト・ジムソン(1864ー1919)が三十五歳の時に設計した家。

1884年、ウイリアム・モリスの講演「芸術と社会主義」より。
「私たちの住居は、しっかりと建てられ、清潔で、健康的でなければならない。
私たちの都市(タウン)の中に、豊かな緑苑(ガーデン)の広がりがなくてはならないし、私たちの都市は、田園や、田舎の自然の特性を蚕食してはならない。また私はこうした田園の中に、不毛の場所や荒蕪地(ヒース)を残しておくように求めたい。さもないと、ロマンスや詩歌、つまり芸術が、私たちの中で、死に絶えてしまうからだ。
秩序と美とは、次のようなことを意味している。つまり、私たちの家が、がっちりと、きちんと建てられているだけでなく、家がほどよく装飾されている、ということや、田園は、耕作するためにあるだけでなく、庭が大事にされるのと同じぐらいに、大切にされなければならないということだ。例えば、たんなる利益のために、もしそれが姿を消すと景観がだめになってしまうような、そんな木々を切り倒すというようなことは、誰にも許されることではない」長谷川堯「田園住宅」

ジムソンは、二十歳の時、このモリスの講演を聴いてゐた。
私の個人的意見だが、住居はロケーションに尽きると信じてゐる。

9 川端康成「犠牲の花嫁」
この作品の書き出しは、次のやうに始まる。
「荒波のやうに山々の峰が連つてゐた。その上に浮んだ木蓮の花瓣のやうな白い月だつた」
少しおいて次の文章。
「私の眼の上で、月見草が一輪ぽつと花開いた。タ暮が明るい眼を見開いたのだ」

それから月見草と私との対話が始まり、自分を月に、秀子と結婚した兄を月見草にたとへた「私」は自分を恥じ、村人の身代りに代々犠牲になつて死んでいつた家系の、美しい娘に会ひに行く。
この作品はその美しい娘の次の言葉に尽きるのだらう。

この世は一つのものでございます。萬物が犠牲になり合って形作ってゐる一つのものでございます。

モーツァルト「ヴァイオリン、ヴィオラ、管弦楽のための協奏交響曲」
第二楽章の、ヴァイオリンとヴィオラとの語らいが、「私」と「美しい娘や月見草」との対話を思はせ、陰影にみちて美しい。

10 ベートーヴェン「弦楽四重奏曲嬰ハ短調作品百三十一」
私はこの曲を聴くと、同じ作曲家の「ピアノソナタ作品111」について、吉田秀和氏が
書いた文章のなかで引用してゐる以下の言葉が思ひ浮かぶ。
「ここで語っている心は、自分が不幸だと告げているのではない。それはただ、幸福は不可能だといっているのであり、その諦念の中に安らぎを見出しているのだ」

私は、「作品百三十一」とむきあってゐるうちに、何時の間にかうたた寝をしている自分に気づく。これは全身全霊で聴き入つていたことの証であり、彼の死の八ヶ月前に完成したこの曲は、聴いているものにさうした作用を及ぼす。それは何かにつつまれてゐる感じであり、たぶんベートーヴェンの優しさから齎らされるものなのであらう。

「ベートーヴェンは、つまり、ゆるしたのだ、己を取り巻く一切の不条理を」五味康祐「天の聲」

11 ブライアン・W・オールディス「地球の長い午後」
1962年に出版されたSF小説。同年、短編小説部門でヒューゴー賞を受賞。

《梗概》ハヤカワ・SF・シリーズ「地球の長い午後」解説より
遠い未来、地球は膨れあがった太陽に永遠に片面を向けたまま、軌道を進むようになった。強烈な放射線が絶えず降りそそぐ昼の面では、動物は殆ど絶滅し、代わって突然変異した植物が支配権を確立する。大陸には一本の強大なベンガル菩提樹に征服された。貪欲で多様な食肉植物、ジャングルの頂から土を求めて地上に管を伸ばすツチスイドリ。地球と月に糸を張り渡して往来する巨大な植物蜘蛛、ツナワタリ…。しかし人間が滅びたわけではない。今では手の平に乗るほど小さくなり、全身緑色に変わっているが。
グレンはそんな人間の部落の一つに生まれた。しかし生来の反抗心が災いして部落を追われ、ノーマンズランドから樹木限界へ、そして夜の地帯へと、彼の果てしない旅が始まる。

漠然とした印象だが、モダンジャズとSF小説の全盛期は、1950年から1960年を中心とした年代に…略、重なつてゐたやうな気がする。

12 宮崎駿「トトロの住む家」東京・杉並区阿佐谷〈Kさん宅〉
平成二十一年二月、この家は放火と思はれる火災で全焼した。翌二十二年七月にその跡地は、宮崎氏の構想を基にして「Aさんの庭」と名付けられ、公園に生まれかはつてゐる。

東京都杉並区阿佐谷北 五ー四十五ー十四

「雨水をためているだけの、コンクリートの池なのに、金魚藻と睡蓮がすっかり落ち着いて、水が澄みきっているのであった」

13 西行「富士のけぶりの」其の二
「西行が恋に悩み、桜に我を忘れ、己が心を持てあましたのも、今となっては無駄なことではなかった。数奇の世界に没入した人は、数奇によって救われることを得たといえるだろう。「これぞ我が第一の自讃歌」といったそのほんとうの意味合いは、これぞわが辞世の歌と自分でも思い、人にもそう信じて貰いたかったのではあるまいか」 白洲正子

西行嫌ひを自認する塚本邦雄に「反・西行記」といふ題名の文章がある。以下は引用。

「技法となれば有名歌人中では最低であり、たとへば、〈山家集〉の、

青葉さへ見れば心のとまるかな散りにし花の名残思へば

を、定家の〈拾遺愚草〉中の、

春はいぬ青葉の櫻遅き日にとまるかたみの夕ぐれの花

に比べれば、同じ趣向でも天才と凡才ではかくも優劣が決定的になるものかと思ふばかりだ。私が西行を認めるとすればただの五首、それも叙景歌の類、

郭公ふかき峯より出でにけり外山の裾に聲のおちくる
きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか聲の遠ざかりゆく
横雲の風にわかるるしののめの山とびこゆる初雁の聲
ふる畑のそばのたつきにをる鳩の友呼ぶこゑのすごき夕暮
鶯の古巣よりたつほととぎす藍よりも濃き聲の色かな

であるが、これをしも別に西行に待つほどの秀作とも思へず、有名な〈願はくば花の下にて春死なむ〉や〈遙かなる岩のはざまにひとりゐて〉など、老優の切つた下手な見得めいて嘔吐を催す。私の西行嫌ひは膏肓に入つてゐるやうだ」

塚本は「西行百首」といふ本を上梓してゐるくらゐだから、單純な西行嫌ひではなささうだ。さらに「不可解ゆゑに我愛す ― 眞の西行・茂吉を求めて」といふ一冊がある。同書の跋から引用する。

「歌聖と目されるあの歌人の、詞花・千載集時代の歌界での、名利への執着振りを見つつ、私は慄然たる快感を覺える。一方、彼が鳥羽院北面として、特殊な、むしろ奇特な恩愛を以て院政とつながつてゐたことを思ふ時、この俗氣滿滿の出家の歌才と、砂金勸進と詠歌勸進の力倆と、入寂予告の神秘性とが、複雜無類に絡み合つて、つひには匙を投げたくなる」

homegallery
home
gallery14