1 リービ英雄「英語で読む万葉集」 年配の男性にとつ、この本は、聖書の代りをするに違いない。 宿の女が江口老人に念を押す、 それにしては、二つの作品の、なんと印象の違ふことか。 ゆっくりした三拍子は、揺り籠のうごきにも似て、聴くものに深い安らぎを与へてくれる。この曲への最強の組みあわせはピアノとアカペラ。オスカー・ピーターソンとシンガーズ・アンリミテッドの演奏が最高だ。 The Oscar Peterson Trio + The Singers Unlimited 7 林望・私譯「新海潮音」〜「恋と人生」 「私は、あの醜怪な人間に生まれてしまった。もし、生まれ変われるなら犬か猿、人間以外なら何でも良い。今までの卑猥な作品と手紙を焼却すべし」これが最後の言葉である。 リバティーンの題名で、2006年、ジョニー・デップ主演で映画化。 8 石川淳「三島由紀夫君を悼む」 われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのをみた。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質な欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は國軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることはなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあった。憲法改正が、もはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは¢天皇を中心とする日本の歴史.伝統.文化を守る£ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰といふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は¢これで憲法は変わらない£と痛恨した。その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て¢憲法改正£といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左翼勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実を取る!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。 銘記せよ!実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとって悲劇の日であつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、その日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残ってゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかってゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本から来ないのだ。シヴィリアン.コントロールは民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン.コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。 この上、政治家のうれしがらせにのり、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当たつては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五.五.三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。 沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。 於 東京市ヶ谷台自衛隊総監部 昭和四十五年十一月二十五日自刃 益荒男が手挟む太刀の鞘鳴りに幾年耐えて今日の初霜 三島由紀夫が昭和四十年十一月に割腹したことを以て昭和といふ時代は終つたと私は思つてゐる。 「瑞々しく青々した山々、エメラルド色をした岩の上を流れる清流など、世界でも有数の美しい自然環境。東アジアのあらゆる芸術的財産を受け入れ、何世紀もの間日本特有の感性でさらに練り磨いた、アジアで最も豊かな文化遺産」 アレックス・カー「犬と鬼」 9 ロレンス・ダレル「『アレクサンドリア四重奏』・マウントオリーヴ」 ベルトリッチ監督「ザ・シェルタリング・スカイ」オリジナル・サウンドトラック盤より、「オン・ザ・ヒル」 10 ロレンス・ダレル「『アレクサンドリア四重奏』・バルタザール」 「ある小説の中で、パースウォーデンが、人生における芸術家の役割について語つてゐる一節が心に浮かぶ。 11 森鴎外「『うた日記』・扣鈕(ぼたん)」 日露戦争従軍詩歌集、明治四十年刊 はたとせの身の浮きしづみのあと、思ひきつて訪ねた地蔵院は、殆ど往事の儘と思はれたが、私たちが嘗て硬貨を投げ入れた池は、昔の面影を留めてゐなかつた。よろこびも かなしびも知つてゐた水は涸れ、僅かに湿つた池の底には、ひとにぎりの落葉。 MILES DAVIS+19「MILES AHEAD」から「LAMENT」 12 獅子文六「青春怪談」 シューベルト「『交響曲第八番 ロ短調 D759〈未完成〉』・第二楽章」 相州の鵠の松原遠けども面影にして見ゆといふものを 13 能「隅田川」と、B・ブリテンのオペラ「カーリュー・リバー」 千九百五十六年、作曲家ブリテンは来日した砌、知人の勧めで能の〈隅田川〉を観、それを原案としたオペラの構想を得た。京都では笙を購入し、演奏の指導をうけてゐる。 「ぼくには日本風の音楽は書けない。でももし、ノルマン征服以前のイースト・アングリアを舞台にしたら、とても説得力のあるものになるかもしれない」友人への手紙 アンサンブルには、フルートと打楽器、それに笙似た音をだすオルガン、ほかにホルン、ヴィオラ、コントラバス、ハープ、さらに鐘。 「サフォーク州オーフォードでの二回目の上演の際に初めてこのブリテンの傑作を聴き、惚れ込んで以来今日に至っている。しかし、東京での能の上演を見に行ってようやく作曲家がどこからこの神秘劇の霊感を得たのか理解した。やがて時が経つにつれてこの作品は多くの人の心を掴んでゆくだろうか。是非ともそうなってくれるとよいのだが…」 聖書に収められている〈雅歌〉には神という言葉が全然なく、直接的な宗教的表現も皆無に等しい。しかしこうなるとだれでも疑問に感ずるのが、では一体なぜこの歌が正典としての聖書に入れられたのかという点である。 山本七平「禁忌の聖書学」目次 山本良樹「21世紀の禁忌」 |
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