notes12

1 リービ英雄「英語で読む万葉集
「恋という『日本語』が、出た。
『恋』という日本語を英語でどう表現するか。雅やかな宴会の歌を翻訳するにあたっても、その問題に直面してしまう。
『恋』を『love』と訳して、the deer cries his love for his wife とか the deer cries with love for his wife にしても、英語としては成り立つ。
*snip*
あこがれ、片思い、離れたところにいる者へ人知れず恋い焦がれる、そのような感情は、古代の日本語で情熱的な表現を得た。結ばれたことのよろこびよりも別れたことの悲しみ、あるいは最初から会えないことの淋しさという内容を表すことに、古代の歌人たちは燃えていたようだ。
それらはすべて『love』の現象だが、『恋ふ』という動詞は、英語の to love を意味しないし、英語の to love のかげが濃い現代日本語の「愛する」とも違う。
『恋ふ』ということばは『love』よりも、むしろ英語の longing(思慕)や yearning (切望)に近いのではないか。
『妻恋ひ』につき動かされて鳴くこの鹿も、

the deer cries
in longing for his wife

とした方が、鳴き声の所以をより正確に伝えているだろう」
リービ英雄「英語で読む万葉集」

2 村上春樹「ノルウエイの森」
どれをとつても、私にはよくわからない村上春樹作品「ノルウエイの森」を読んだ。上巻46頁に、最初から平凡な結論がでてくる。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
それから退屈ないくつかのセックス描写が続き、下巻最後に。

「僕は今どこにいるのだ?
いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕は何処でもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた」

たぶん主人公は、かういふかたちで世の中に借りを返してゐるのだらう。
私は「死は私たちとともに生まれた」といふ、モンテスキューの表現のほうが好きだ。

音楽は「ソフトな混沌の今日性」を村上春樹氏が感じるといふ「シューベルト ピアノソナタ第17番ニ長調D850」が相応しいだらう。

3 池澤夏樹「きみのためのバラ」
このサイトを、思ひもかけず、ながながとつづけてしまつたが、ある意味では目的を達したといへるので、終了のときを、そろそろ考へなければなるまい。そのときは「黄色いバラ」ならぬ「笹百合」を部屋に飾るのが夢である。

笹百合ー日本固有の種。中部以西に分布。現在は稀少種。葉が笹の形に似る。淡い香りがあり、花の色は淡いピンクが主であるが、純白のものもある。六月七日の率川神社の三枝祭(さいぐさまつり)に、巫女の手で神前に供へられる。三島由紀夫にも縁が深い。

4 ガルシア・マルケス「わが悲しき娼婦たちの思い出」
「『あの子と結婚したらどう。ようするにあんたたちくらいの年齢の男性が抱えている問題は、ものの役に立つかどうかなんだけど、その問題はもう解決済みだって言っていたでしょう』私は彼女をさえぎって言った。『セックスというのは、愛が不足しているときに慰めになるだけのことだよ』
心臓は何事もなかったし、これで本当の私の人生がはじまった。私は百歳を迎えたあと、いつの日かこの上ない愛に恵まれて幸せな死を迎えることになるだろう」

年配の男性にとつ、この本は、聖書の代りをするに違いない。

5 川端康成「眠れる美女」
ガルシア・マルケスは、川端のこの小説を読んで、「わが悲しき娼婦」の想を得たさうである。「眠れる美女」の一部を巻頭に引用してゐる。

宿の女が江口老人に念を押す、
「たちの悪いいたづらはなさらないで下さいませよ、眠ってゐる女の子の口に指を入れようとなさつたりすることもいけませんよ」

それにしては、二つの作品の、なんと印象の違ふことか。

6 サド・ジョーンズ「A Child is Born」
この曲の歌詞は、舊約聖書のイザヤ書・第九章第六節を下敷きにしてゐる。チャイルドとは神の子の謂。
以下、日本聖書協会の舊新約聖書より。
〈ひとりの嬰児われらのために生まれたり。我儕はひとりの子をあたへられたり。政事はその肩にあり。その名は奇妙、また義士、また大能の神、とこしへの父、平和の君と、となへられん〉

ゆっくりした三拍子は、揺り籠のうごきにも似て、聴くものに深い安らぎを与へてくれる。この曲への最強の組みあわせはピアノとアカペラ。オスカー・ピーターソンとシンガーズ・アンリミテッドの演奏が最高だ。

父母未生の昔も今も、自分の存在しないこれからも、星空はかはらず耀いてゐることだらう。夜空のもとでは、自分の存在がかぎりなくちいさく感じられるけれど、またおおきなものにいだかれているやうでもある。星々を鏤めた夜空は、わたしたちの死にゆくところでもあり、生まれいずるところでもあらう。
銀河鉄道の夜を読んでゐて、何か音楽を思ひうかべることはないけれど、この曲この演奏なら、ジョバンニもカンパネルラも、気にいつてくれると思ふ。

The Oscar Peterson Trio + The Singers Unlimited
In Tune〜A Child is Born

7 林望・私譯「新海潮音」〜「恋と人生」
ジョン・ウイルモット・ロチェスター伯爵…1647-1680。
その天才を認められながら、酒と女と放蕩で身を持ち崩し、梅毒に罹り、1680年に死亡。

「私は、あの醜怪な人間に生まれてしまった。もし、生まれ変われるなら犬か猿、人間以外なら何でも良い。今までの卑猥な作品と手紙を焼却すべし」これが最後の言葉である。
林氏の美しい文語文を味わつてほしい。加へて、聖書の文語訳と、口語訳を読み比べるのも一興であらう。口語訳の滑稽さがよくわかる。

リバティーンの題名で、2006年、ジョニー・デップ主演で映画化。

8 石川淳「三島由紀夫君を悼む」
檄文
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかった男の涙を知つた。
ここで流した我々の汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同士として共に富士の原野を馳駆した。
このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのをみた。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質な欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は國軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることはなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあった。憲法改正が、もはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは¢天皇を中心とする日本の歴史.伝統.文化を守る£ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。

しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰といふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は¢これで憲法は変わらない£と痛恨した。その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て¢憲法改正£といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左翼勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実を取る!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

銘記せよ!実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとって悲劇の日であつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、その日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。

われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残ってゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかってゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。

われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本から来ないのだ。シヴィリアン.コントロールは民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン.コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

この上、政治家のうれしがらせにのり、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当たつては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五.五.三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。

沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

於 東京市ヶ谷台自衛隊総監部 昭和四十五年十一月二十五日自刃
辞世

益荒男が手挟む太刀の鞘鳴りに幾年耐えて今日の初霜
散るを厭う世にも人にも先駆けて散るこそ花と吹く小夜嵐

三島由紀夫が昭和四十年十一月に割腹したことを以て昭和といふ時代は終つたと私は思つてゐる。

「瑞々しく青々した山々、エメラルド色をした岩の上を流れる清流など、世界でも有数の美しい自然環境。東アジアのあらゆる芸術的財産を受け入れ、何世紀もの間日本特有の感性でさらに練り磨いた、アジアで最も豊かな文化遺産」 アレックス・カー「犬と鬼」
以前の日本は、かういふ国だつた。

9 ロレンス・ダレル「『アレクサンドリア四重奏』・マウントオリーヴ」
マウントオリーヴ…イギリスの駐エジプト大使。

ベルトリッチ監督「ザ・シェルタリング・スカイ」オリジナル・サウンドトラック盤より、「オン・ザ・ヒル」
音楽にコーランの朗唱が、かすかに絡み合ふ。

10 ロレンス・ダレル「『アレクサンドリア四重奏』・バルタザール」
パースウォーデン…自殺したイギリスの外交官。高名な作家。

「ある小説の中で、パースウォーデンが、人生における芸術家の役割について語つてゐる一節が心に浮かぶ。
『彼自身、人間の本性にひそむあらゆる不調和、あらゆる災いに気がついているとしても、友人たちに警告するすべはない。指さし、叫び声を上げ、危ういところで救ってやるというわけにはいかない。そんなことをしたところで何の役にも立たないだろう。なぜなら、彼らは自らの不幸を自ら惹き起す要因となっているのだから。彼がひとつの命令として言い得るすべては『思いをいたして泣け』ということにすぎない』」

11 森鴎外「『うた日記』・扣鈕(ぼたん)」 日露戦争従軍詩歌集、明治四十年刊
うた日記
こちたくな 判者とがめそ 日記のうた みながらよくば われ歌の聖

はたとせの身の浮きしづみのあと、思ひきつて訪ねた地蔵院は、殆ど往事の儘と思はれたが、私たちが嘗て硬貨を投げ入れた池は、昔の面影を留めてゐなかつた。よろこびも かなしびも知つてゐた水は涸れ、僅かに湿つた池の底には、ひとにぎりの落葉。

MILES DAVIS+19「MILES AHEAD」から「LAMENT」

12 獅子文六「青春怪談」
〈梗概〉
奥村千春と宇都宮慎一は、疎開先の鵠沼での幼馴染み。宇都宮家が東京へ帰つても、二人は仲のいい男女として、つかず離れずの関係だ。千春は独身の父、鉄也と、慎一の母で未亡人の蝶子が茶飲み友だち、できれば結婚してくれないかと望んでゐる。そして紆余曲折の後、鉄也と蝶子は結婚し、慎一と千春は、当面、恋人未満の関係を続けることを決める。

シューベルト「『交響曲第八番 ロ短調 D759〈未完成〉』・第二楽章」
ホルン、ファゴットの和音に続く、ヴァイオリンの第一主題。それは松籟のやうな懐かしいひびき。

相州の鵠の松原遠けども面影にして見ゆといふものを

13 能「隅田川」と、B・ブリテンのオペラ「カーリュー・リバー」

千九百五十六年、作曲家ブリテンは来日した砌、知人の勧めで能の〈隅田川〉を観、それを原案としたオペラの構想を得た。京都では笙を購入し、演奏の指導をうけてゐる。
それから八年後の千九百六十四年、〈隅田川〉をキリスト教寓話に置き換へた新しいオペラが誕生した。ただ、能の〈隅田川〉とは、結末の場面が大きく異なる。〈カーリュー・リバー〉では、女は、墓の中でうたう息子の声を聴く。それから息子の霊が現れて女は正気に戻る。〈あはれ〉とは無縁の奇跡、キリスト的救済である。

「ぼくには日本風の音楽は書けない。でももし、ノルマン征服以前のイースト・アングリアを舞台にしたら、とても説得力のあるものになるかもしれない」友人への手紙

アンサンブルには、フルートと打楽器、それに笙似た音をだすオルガン、ほかにホルン、ヴィオラ、コントラバス、ハープ、さらに鐘。
男声合唱八人(テノール三人・バリトン三人・バス二人)、狂女、渡し守、旅人、僧の四人とそれぞれの従者。

「サフォーク州オーフォードでの二回目の上演の際に初めてこのブリテンの傑作を聴き、惚れ込んで以来今日に至っている。しかし、東京での能の上演を見に行ってようやく作曲家がどこからこの神秘劇の霊感を得たのか理解した。やがて時が経つにつれてこの作品は多くの人の心を掴んでゆくだろうか。是非ともそうなってくれるとよいのだが…」
千九百七十七年五月九日、ベンジャミン・ブリテンの思い出に、スビャトスラフ・リヒテル

12 「雅歌の官能性」・山本七平「禁忌の聖書学」より

聖書に収められている〈雅歌〉には神という言葉が全然なく、直接的な宗教的表現も皆無に等しい。しかしこうなるとだれでも疑問に感ずるのが、では一体なぜこの歌が正典としての聖書に入れられたのかという点である。
さまざまな説があるが、戯曲とはいえないまでも、ある種の踊りや演技とともに男女が交互に歌い、それを台詞のようにやりとりし、同時に合唱が入ると読んでよいと思う。七十人訳では題は単に〈歌(アスマ)〉となっており、それをごく単純に若い男と女の独唱と合唱に分けて読んで行けばよいと思う。
本書は簡単にいえば、西欧の文学や映画の題材となった「聖書のある部分」を取り上げ、その部分の原典を詳説したにすぎないと言ってよい。なぜそのようなことを試みたかといえば、たとえば「聖母マリア」「処女降誕」といった言葉や絵画を知らない人はいないか、それが聖書にどのように記されているかを知る人が殆いないことを、常々感じていたからである。
聖書は西欧の文学・美術におおきな影響を与えた。それを抜きにして文学・美術は語れないほどの、決定的影響を与えた。そしてその影響を与えた文学・美術は日本に紹介され、広く読まれ、日本にもつよく影響を与えたことは否定できない。そこで影響を受けたものから、逆に、影響を与えたものにたどりつこうとしたのが本書である。

山本七平「禁忌の聖書学」目次
1 裏切者ヨセフスの役割
2 マリアは処女で聖母か
3 ヨセフ物語は最古の小説
4 結末なきヨブの嘆き
5 雅歌の官能性
6 過越の祭りと最後の晩餐

山本良樹「21世紀の禁忌」
父が生きて、本書の第六章「過越しの祭りと最後の晩餐」に続く第七章を書き得たとしたら、第七章は「復活」に関する章となるはずだった。旧約聖書にも「復活」に類する思想はあるが、おそらく父が記そうとしたのは、新約聖書の「復活」思想であると同時に、イエスの「受苦」と「復活」であっただろう。

表紙hello 12
home
gallery12