アレクサンドリア四重奏〜マウントオリーヴ

三島由紀夫   思いをいたして泣け
ニ度トコノ夜ニ

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「スピードメーターの針は六十マイルを超えるあたりで震えている。静かな白い大気の中を飛ばしながら、彼はいつのまにか、あの嫌いな唄をそっと口ずさんでいた。

Jamais de la vie,  ニ度トコノ世デハ
Jamais dans ton lit  ニ度トコノ夜ニ
Quand ton coeur se démange de cbagrin  オ前ノ心ガ悲シミニウズイテモ

こんなふうにいつのまにか歌い出しているなんて、久しく経験しなかったことだ。それは必ずしも幸福感ではなかった。むしろ、圧倒的な安心感だった。この忌まわしい歌でさえ、彼がかって心を惹かれていたアレキサンドリアの面影を浮かびあがらせてくれる。ふたたびそうなってくれるだろうか、そうなり得るだろうか。
空には雲がたれこめていた。雷鳴がアレキサンドリアの上に轟きはじめていた。東の冷たい緑の湖水に、激しい雨が降り注いだ…輝く針が水面に穴を開けた。車の囁きと混じりあって、かすかな雨の音が彼の耳にも聞こえてきた。冬のアレクサンドリアに雨が降るのは珍しい。まもなく海風が吹き起こり、空の模様替えをするだろう。冬空の透き通るようなさわやかさが光をとりもどし、ふたたび都会を磨きたてるだろう。
マウントオリーヴは、今、そのすべてを倦怠の眼ざしで眺めていた。倦怠こそは成熟した人間に贈られる徽章であり、人を老いさせる経験の烙印であることを、彼は悟るようになっていた。」

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