獅子文六「青春怪談」

森鴎外「扣鈕」 c 隅田川
「鵠沼の椿小路というところに、奥村千春と、父の鉄也が、住んでいた。小さな電車が、ゴトンゴトンと通る線路から、そう遠くない所だが、巨きな松が生えた砂山が、防壁になっているせいか、至極閑静な住居である。その代わり、門も、塀も、家そのものも、ずいぶん古びて、関東震災以前の海岸別荘風の建築様式を、そのまま残している。
この鵠沼に移ってきたのは、戦争の二年前で、千春が、学齢に達した時だった。
-略ー
宇都宮の慎一や蝶子と、彼女(千春)が知り合ったのも、この頃のことである。もう未亡人だった蝶子は、鵠沼の親戚の家へ疎開して、慎一も、ここから東京へ通学していた。
ー略ー
戦後、宇都宮一家が、東京へ帰る頃には、千春も、女学校を出て、麹町の芦野良子舞踊団に入り、毎日、稽古に通うようになったので、交際は、土地を替えて、継続された。」
青春怪談
「鉄也は、朝が早く、昨夜、日比谷公会堂を出てから、娘と、宇都宮蝶子と三人で、新橋でお茶を飲んで、十一時過ぎに、鵠沼に帰ったのだが、六時には、床を離れ、七時には、朝飯の膳に向かっていた。千春は、寝坊だから、まだ、顔を出さない。
『よいアンバイに、お天気が続きまして……』
六十近い婆やのお杉が、角盆に、紅茶ポット、牛乳、半熟卵、燻製鮭、トーストなぞを載せて、茶の間へ入ってきた。イギリス風の朝飯を食べるのは、彼の長い習慣で、紅茶を入れるのも、人手を煩わさない。順序や湯加減を、まちがえられると、茶がまずくなるという、ウルさい爺さんである。
『ああ、鵠沼は、今頃が一番だな』
爽やかな、五月の朝で、梅や楓の若葉が、塗りたてペンキのように、鮮やかである。それに、松の匂いが、プンプンするのが、気持ちがいい。松の花が咲いて、ずいぶん久しくなるが、まだ、花粉が飛ぶのだろうか。
ー略ー
いつもは、新聞を読みながら、朝飯を食べるのだが、例となっているが、どういうものか、今日は、死んだお長のことが、しきりに、思い出されて、紅茶を飲む手も、休みがちになる。…いま、生きていれば、四十八か。いや、おれと三つちがいだから、九だろう…。
ー略ー
彼女のもちまえのニコニコした笑顔は、すぐ目に浮かぶが、豊かな頬と、ツヤツヤした黒髪で、どうしても、年をとってくれないのである。彼女は、別れた時の年齢で、永遠に、生きているのか。」
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