notes4

1 永井荷風「ふらんす物語」より。東雲か、黄昏か
ポーレットは眠れり。吾があらはなる腕を枕にして眠れり。香しき黒髪は夜の雲と乱れて吾肩の上に流れたり。豊かなる胸は熟りて落ちんとする果物の如く吾が頬に垂れたり。物乞のうたふ唄。ヴィヨロンの調。窓の外に聞ゆ。二月の冬の日は、さらば雪にてはなかりしなり。

東雲〈しののめ〉、腕〈かいな〉、香しき〈かんばしき〉、熟りて〈みのりて〉

2 わが郎女〈いらつめ〉
星肆〈ほしくら〉へのあゆみ、玲瓏〈れいろう〉として耀〈かがよ〉ふ。

郎女は死んだ。私は永遠に郎女を所有することになつた。 

3 ラヴェル「シェラザード」
作曲、モーリス・ラヴェル、作詞、トリスタン・クラングゾール、「シェエラザード」第一曲「アジア」
第二曲「魔法の笛」のフリュートの旋律など、さびしく、また、たまらなく懐かしく感じられる。我が国の東歌の背景にだうだらうか。

武蔵野の草はもろむきかくかくも君がまにまに吾はよりにしを  

4 ホフマン「ウルダルの泉
E・T・A ホフマン「ブラムビルラ王女」第三章、王オフィークと王妃リリスの物語より。

5 前川佐美雄「あかあかと硝子戸照らす夕べなり 鋭きものはいのちあぶなし」
たった一人の母狂はせし夕ぐれをきらきら光る山から飛べり
夕焼のにじむ白壁に声絶えてほろびうせたるものの爪あと

前川佐美雄 千九百三年〜千九百九十年  

6 堀辰雄・窓はわれわれの幾何学
堀辰雄の評論・詩集「窓」より。
「私はいま自分の前に『窓』といふ、挿絵入りの、薄い、クワルト判の佛蘭西語の詩集をひろげてゐる。その表題の示すやうに、ことごとく、窓を主題にした十篇の詩をあつめたもので、そのおのおのに一枚づつ挿絵が入つてゐるのである」
といふ書きだしの評論だが、作者は詩人の名をあきらかにしてゐないが、どうやらリルケらしい。

7 折口信夫・弟切草栽培所
「弟切草」弟切草科、学名・Hypericum erectum、葉は対生、透かすと乾いた血痕のやうな黒点がある。花は黄色い五弁花。エデンの東の、日当たりのよい山野に自生。成分におだやかな鎮静作用があるのは、エホバがカインにあたへた「護符」であらう。
詩は、折口信夫「贖罪」から。

ははなさば、 かくなすべしや はらなしに おひいでしわれ えなしに やどりしわれ あめつちのわたくしばらと はらさかで あれいでしはや。  

8 シモーヌ・ヴェイユ・恩寵
鳥の通う道を辿れば、雲と見まがふ無数の硝煙のうちに、たどりつけるだらうか。
死ぬことなど、…生きることにくらべれば。

9 F.H. バーネット「小公女」
「とつぜん、すぐそばで音がした。セーラは、くるっと、そのほうをむいた。なにか、きいきいさわいでいる。へんな音。となりの家の屋根裏部屋のあたりだ。だれかが、セーラのように、夕焼けをながめにきたらしい。やがて頭、そして肩が、天窓からあらわれた」

この後セーラと、ラム・ダスとの出会ひがあり、主人の命を承けた彼の手で屋根裏部屋に奇跡がおきる。昔この本を読んだときには、屋根裏の場面が好きだつたが、今読むと引用した夕やけの描写に心ひかれる。

「なんだか、おそろしいくらいだわ。なにか、変わったことがおこるような気がするわ。あんまりきれいな夕焼けを見ると、いつもそんな気がするわ」

ここにゐるセーラは、かつての私そのものである。

10 ポラーノの広場
ロザーロという名前は、ポラーノの広場以外の賢治作品のなかには出てこないやうである。作品のなかでも、詳しい描写はなく、フアゼーロの姉といふことしかわからない。初めてこの作品を読んだときから、ロザーロという名前のひびきは、わたしのなかで特別な存在になつてしまつた。つめくさの花と月あかりのなかにたたずんでゐるロザーロ。あなたはいつたい、だれなのだらうか。

11 フランク・ロイド・ライト「ミラード夫人邸〈ミニアトゥーラ〉」
Mrs. Alice Millard Residence, La Miniatura
645 Prospect Crescent, Pasadena, CA, United States

千九百二十三年(大正十二年)に、同時に竣工した、ライト設計の帝国ホテルとミラード邸は、その後、運命が命ずるまま、それぞれの道をたどつた。帝国ホテルは1968年(昭和四十三年)に解体され、玄関部分が明治村に移築された。ミラード邸は地震を乗りこえて健在である。九十歳になる。現在の持ち主は、「CROSBY DOE ASSOCIATES, INC」といふ会社。

CROSBY DOE ASSOCIATES, INC
Crosby Doe Presents Frank Lloyd Wright Millard House, Pasadena CA
http://millardhouse.com/

この住宅につけられた価格は、四百四十九万五千ドル。残りの人生をここで過ごすためには、五億円あれば十分だらう。資金をどうするか現在思案中である。宝クジの当選者になる、といふ可能性もある。今の日本に未練はない。お金の都合がつき次第、米国に移住するつもりだ。

ミニアトゥーラの池を前に

逝きし世を おもかげにして 水の花

12 永井荷風「妾宅」
「『妾宅』は文人墨客境の究極のごとくだが、近代小説の発端にほかならない。明治大正の文学を通じて、他に掛替のない逸品である。」 石川淳「祈禱と祝詞と散文」

私は、夷齋先生の「他に掛替のない逸品」といふ言葉に刺激され、「妾宅」を読んだものの、この作品の逸品たる所以がよく理解できなかつた。その後、菅野昭正「永井荷風巡歴」を読んで、得るところがあつた。

「随筆『妾宅』に濃縮された問題の深さに目をとどかせた上で、『明治大正の文学を通じて、他にかけがえのない逸品である』と言いきったのは石川淳である。
市井の裏通り、日もろくに当たらない掘割りぞいにつつましく妾宅を構え、江戸藝術・江戸趣味の残照を生きようとする『珍々先生』の心意気を語るこの随筆は、千九百十二(明治四十五)年に発表されたときから多少とも大方の論議の種にされ、それなりに歴史を重ねてきた。下世話な滑稽感をただよわせる話体には類のない味わいがあるし、『珍々先生』と形影相伴うようにして、江戸藝術・江戸趣味の徒としての永井荷風の姿勢が、はっきり映しだされてくる妙趣も感じられる。
〈略〉
要するに、石川淳の『妾宅』見立ての精髄は、『明治大正の文学を通じて』、小説家が考えあぐねていたアポリアを解く有効な試みというところにあった。つまり小説論的な随筆として読解されたのだが、それはむろん作者の意のあるところに重なっている。この日陰のわびしい妾宅には疑似近代への批判が寓意としてこめられているなどと、あえて書きそえる必要はあるまいが、江戸趣味につつまれて暮らす生活そのものから、ただちに小説を書くエネルギーを産出するこのような工夫は、『珍々先生』の生みの親以外に誰ひとり考えついたものとてなかった。その点でたしかにこれは、『掛替えのない逸品である』。」 菅野昭正「永井荷風巡歴」〜「《始まり》の終り」

以上を読んで成る程と思ふ。しかし「妾宅」が「掛替のない逸品」とまでは思へない。それは私が小説家ではなく、芸術家でもないからなのだらう。晩年の荷風も、この姿勢を最後まで貫くことは出来なかつた。夷齋先生の「敗荷落日」の末尾は、以下の文章で結ばれてゐる。

「むかし、荷風散人が妾宅に配置した孤独はまさにそこから運動をおこすべき性質のものであつた。これを芸術家の孤独といふ。はるかに年をへて、とうに運動がをはつたあとに、市川の僑居にのこつた老人のひとりぐらしには、芸術的な意味はなにも無い。したがつて、その最期にはなにも悲劇的な事件は無い。今日なほわたしの目中にあるのは、かつての妾宅、日和下駄、下谷叢話、葛飾土産なんぞに於ける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの、一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一燈をささげるゆかりも無い。」

13 泉鏡花「髙野聖」
男瀧の方はうらはらで、石を碎き、地を貫く勢、堂々たる有様じゃ、これが二つ件の巌に當つて左右に分れて二筋となつて落ちるのが身に浸みて、女瀧の心を碎く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震わすやうで、岸に居てさえ軆がわなゝく、肉が跳る。ましてこの水上は、昨日孤家の婦人と水を浴びた處と思ふと、気のせい所爲かその女瀧の中に繪のやうなかの婦人の姿が歷々、と浮いて出ると卷込まれて、沈んだと思ふと又浮いて、千筋に亂るる水とともにその膚が粉に碎けて、花片が散込むやうな。あなやと思ふと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となつて、浮いつ沈みつ、ぱッと刻まれ、あッと見る間にまたあらはれる。私は耐らず眞逆に瀧の中へ飛込んで、女瀧をしかと抱いたとまで思つた。氣がつくと男瀧の方はどうどうと地響打たせて。山彦を呼んで轟いて流れて居る。あゝその力をもつてなぜ救はぬ、儘よ!
瀧に身を投げて死のうより、舊の孤家へ引返せ。汚らはしい欲のあればこそ恁うなつた上に躊躇するわ、其顔を見て聲を聞けば、渠等夫婦が同衾するのに枕を竝べて差支へぬ、それでも汗になつて修行をして、坊主で果てるよりは餘程の増じやと、思切って戻ろうとして、石を放れて身を起こした、背後から一つ背中を叩いて、
「やあ、御坊様」といはれたから、時が時なり、心も心、後暗いので喫驚して見ると、閻王の使いではない、これが親仁。 
ー略ー
「何じゃの、己が嬢様に念が懸かつて煩腦が起きたのじゃの。うんにや、祕さつしやるな、おらが目は赤くッても、白いか黒いかはちやんと見える。
地體並のものならば、嬢様の手が觸つて那の水を振舞はれて、今まで人間で居よう筈はない。牛か馬か、猿か、蟇か、蝙蝠か、何にせい飛んだか跳ねたかせねばならぬ。谷川から上がつて來さしつた時、手足も顔も人じゃから、おらあ魂消た位、お前様それでも感心に、志が堅固じゃから助かつたやうなものよ」
ー略ー
「妄念は起こさずに早う此處を退かつしやい、助けられたが不思議な位、嬢様別してのお情ぢやわ、生命冥加な、お若いの、屹と修行をさつしやりませ」と又一ツ背中を叩いた、親仁は鯉を提げたまゝ見向きもしないで、山路を上の方。
見送ると小さくなつて、一坐の大山の背後へかくれたと思ふと、油旱の焼けるやうな空に、其の山の巓から、すくすくと雲が出た、瀧の音も静まるばかり殷々として雷の響。

14 バッハ「平均律クラヴィーア曲集・第一巻〜第四曲・前奏曲」
冒頭のモティーフと第五小節に現れるモティーフとが、各声部に模倣され変形されて受け継がれていく。それは、偉大な魂の憧憬である。

私にはきこえる。マリアの膝にいだかれて、音楽がきこえる。平均律クラヴィーア第一巻・第四曲の前奏曲だ。慈悲、慈愛、清澄にして、人の心のつらさ、懐かしさ、悲しさをつつみこむ。

〈もういい、それでいい、もうすぐらくになる、おまへはこれからねむりにつく〉
〈そう、じゃ、これからはマリア、いつまでもあなたと、ふたりきりで…〉

恐ろしき母子相姦のまぼろしはきりすとを抱く悲傷〈ピエタ〉の手より 葛原妙子

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