泉鏡花「髙野聖」

l c 平均律
高野聖
殊に今朝も東雲に袂を振り切つて別れやうとすると、お名殘おしや、かやうな處に恁うやつて老朽ちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、何處ぞで白桃の花が流れるのを御覽になつたら、わたしの體が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになつたことと思へ、といつて悄れながら、なほ深切に、道は唯此の谷川の流れに沿うて行きさへすれば、何ほど遠くても里に出らるる、目の下近く水が躍つて、瀧になつて落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるやうに、と氣をつけて、孤家の見えなくなつた邊で、指しをしてくれた。
其手と手を取交すには及ばずとも、傍につき添つて、朝夕の話對手、蕈の汁で御膳を食べたり、私が榾を焚いて、婦人が鍋をかけて、私が木の實を拾つて、婦人が皮を剝いて、それから障子の内と外で、話をしたり、笑つたり、それから谷川で二人して、其時の婦人が裸體になつて私が背中へ呼吸が通つて、微妙な薫の花びらに暖かに包まれたら、其のまま命が失せても可い!
homegallerynotes

home

notes4

gallery4