永井荷風「妾宅」

ミラード邸 c r
妾宅
どうしても心から満足して世間一般の趨勢に伴つて行くことが出来ないと知つたその日から、彼はとある堀割のほとりなる妾宅にのみ、一人倦みがちなる空想の日を送る事が多くなつた。今の世の中には面白い事が無くなつたといふばかりならまだしもの事、見たくでもない物の限りを見せつけられるのに堪へられなくなつたからである。進んで其等のものを打壊さうとするよりも寧ろ退いて隠れるに如くはないと思つたからである。何も彼も時世時節ならば是非もないといふやうな川柳式のあきらめが、遺伝的に彼の精神を訓練さしていたからである。
川竹の憂き身をかこつ哥沢の糸より細き筆の命毛を渡世にする是非なさ……オツト大変忘れたり。彼と云ふは堂々たる現代文士の一人、但し人の知らない別号を珍々先生といふ半可通である。かくして先生は現代の生存競争に負けないため、現代の人達のする事は善悪無差別に一通りは心得てゐやうと努めた。その代り、さうするには何処か人知れぬ心の隠家を求めて、時々生命の洗濯をする必要を感じた。宿なしの乞食でさへも眠るには猶橋の下を求めるではないか。厭な客衆の勤めには傾城をして引過ぎの情夫を許してやらねばならぬ。先生は現代生活の仮面をなるべく巧に被りおおせるためには、人知れずそれをぬぎ捨てべき楽屋を必要としたのである。昔より大隠のかくれる町中の裏通り、堀割に沿ふ日かげの妾宅は即ちこの目的の為に作られた彼が心の安息所であつたのだ。
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