notes5

1 「シナラ」アーネスト・ダゥスン作詞、フレデリック・ディーリアス作曲

Last night,ah,yesternight,betwixt her lips and mine
There fell thy shadow,Cynara! thy breath was shed
Upon my soul between the kisses and the wine;
And I was desolate and sick of an old passion,
 Yea,I was desolate and bowed my head:
I have been faithful to thee,Cynara! in my fashion.

All night upon mine heart I felt her warm heart beat,
Night-long within mine arms in love and sleep she lay;
Surely the kisses of her bought red mouth were sweet;
But I was desolate and sick of an old passion,
 When I awoke and found the dawn was gray:
I have been faithful to thee,Cynara! in my fashion.

I have forgot much,Cynara! gone with the wind,
Flung roses,roses riotously with the throng,
Dancing,to put thy pale,lost lilies out of mind;
But I was desolate and sick of an old passion,
 Yea,all the time,because the dance was long:
I have been faithful to thee,Cynara! in my fashion.

I cried for madder music and for stronger wine,
But when the feast is finished and the lamps expire,
Then falls thy shadow,Cynara! the night is thine;
And I am desolate and sick of an old passion,
 Yea,hungry for the lips of my desire:
I have been faithful to thee Cynara! in my fashion.

昨夜、ああ昨宵、たはれめとかたみにかはすくちづけを
あはれシナラよ、なが影のふとさへぎりて、そのいぶき
えひほうけたるわが霊の上に落つれば
われはしも昔の恋を想ひ出でここちなやまし、
さなり、われこころやぶれて額垂れぬ。
われはわれとてひとすじに恋ひわたる君なれば、
あはれシナラよ。

よもすがら、わが胸の上にその胸の動悸をつたへ、
よもすがらわれにいだかれてうまいむすべり、たはれめは。
一夜妻なれ、その紅き唇のあまさよいかならむ。
さはれ、むかしをおもひ出とわれうらぶれぬ、
むすびかねたる手枕の曙の夢さめしとき。
われはわれとてひとすじに恋ひわたりたる君なれば、
あはれシナラよ。

われは多くをうちわすれ、シナラよ、風とさすらひて、
世の人の群れにまじり狂ほしく薔薇をなげぬ、薔薇をは。
色香も失せし白百合の君が面影忘れんと舞ひつ踊りつ。
さわれ、かのむかしの恋に胸いたみ、こころはさびぬ、
そのをどりつねにながきに過ぎたれば、
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
あはれシナラよ。

いやくるほしき楽の音を、またいやつよき酒呼べど、
うたげのはてて燈火の消えゆくときは、
シナラよ、あはれなが影のまたも落ち来て夜を領れば、
われは昔の恋ゆゑにここちなやみてうらぶれつ、
ただいろあかき唇を恋ふるこころぞつのるなれ。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
あはれシナラよ。 訳・矢野峰人

「読者よ、あなたがアーネスト・ダウスンという詩人の名は知らなくとも、〈風と共に去りぬ〉という言葉はきっと御存知だろう。これはマーガレット・ミッチェルの小説の題名で、映画化されて有名になったが、じつは、ダウスンの詩、シナラ〈第三連〉からの引用なのだ。
もうひとつ、〈酒と薔薇の日々〉という言葉も、どこかで聞いたという方が多いのではあるまいか。これもダウスンの詩の一句で、ブレイク・エドワーズ監督、ジャック・レモン主演の映画「酒とバラの日々」の題名に使われた。

南條竹則「悲恋の詩人 ダウスン」

2 開高健「ポリネシアへの道」
ここに一冊の本がある。G.S ステント著、「 THE COMING OF THE GOLDEN AGE 」、邦訳名「進歩の終焉」。要約すると、「進歩それ自体に内在する負のフィードバックにより、芸術と科学の進歩が遠からず終わりを告げるであろう。そこからどういった社会が出現するか。それはポリネシアへの道である。高度な航海術とパイオニア精神によってアジアから南太平洋の島々へ移住した人たちは、約束の地を見いだした。そこでの努力や困難のない生活は、怠惰や安逸をもたらしただけだった。」 以上の前提で、さう遠くない将来に、ごく少数の非凡な人たちの働きのもとで、大多数は怠惰で贅沢な生活を続ける社会の出現を予言してゐる。この本が書かれておよそ三十年が経過した現在、我々は楽園への道をたどつてゐるのだらうか。それともー

3 虹たちぬ 、高浜虚子と森田愛子

愛子はお母さんと柏翠と三人で、私と立子を敦賀まで送ると言った。それに及ばぬ、疲れているであろうから美佐尾といっしょに福井で降りて三国へ帰った方がよくはないかと言ったのであるが、しいて敦賀まで送ると言った。福井を過ぎると汽車もだいぶすいて、私らは片方に腰を掛け、その向い側には愛子とお母さんと柏翠とが腰を掛けた。

愛子も柏翠も私らに別れともないようなそぶりが見えていた。私らはこれから芭蕉二百五十年忌法要に列席するため近江、京都、大阪、伊賀と旅行を続けるので、柏翠も同行したい容子であったのだが、その健康が心配であったのでそれとなくこれを止めた。愛子も柏翠と同じ病気でこの間もかわるがわる臥せっていたという話を私らは聞いていたのである。私は愛子の裏の二階で、九頭竜川の吹雪の壮観をぜひ見せたいということを言った時分に、'そんな時電話を鎌倉にかけて、今吹雪がしていますと知らせてくれればいいではないか、と言ったら、それでは今度はそうしますと言ったことを思いだした。
その時ふと見ると、ちょうど三国の方角に当って虹が立っているのが目にとまった。
「虹が立っている」
と私はそちらを指した。愛子も柏翠もお母さんも体をねじ向けてそちらを見た。それはきわめて鮮明な虹であった。その時愛子は独り言のように言った。
「あの虹の橋を渡って鎌倉へ行くことにしましょう。今度虹がたった時に……」
それは別に深い考えがあって言ったこととも覚えなかった。最前から多少感傷的になっているところに、美しい虹を見たために、そんなおとぎ噺みたようなことが口を衝いて出たものと思われた。私もそこに立っている虹
を見ながら、その上を愛子が渡って行く姿を想像したりして、
「渡っていらっしゃい。杖でもついて」
「ええ杖をついて……」
愛子は考え深そうに口を噤んだ。

愛子とお母さんと柏翠とは敦賀で降りた。そうして私と立子との乗っている汽車がそのまま発車して京都へ向うのに淋しく手を振っていた。
三国の町は九頭竜川に沿うてその河口まで帯のように長く延びている。昔の日本海を通る船はたいがいここに船繋りしたのだそうで、三国港といえばずいぶん殷賑を極めたものであったといわれる。最近まで絃歌の湧きたつ妓楼がたくさんあったそうである。今でも町を通ってみるとそれらしい家が軒を並べておるのが目につく。その九頭竜川に臨んだ寺に俳妓哥川の隠栖しておった寺があるが、そうしてそこの住職も永諦といって柏翠の俳句の弟子であるが、その近所の家に愛子とお母さんは住まっている。お父さんは別の大きな家に住まっていて、ときどきこのお母さんの家に来るのだそうである。私は、
川下の娘の家を訪ふ春の水 虚子
という句を空想して作ったが、そのお父さんのいる本家というのは町の中央にあって、愛子の家がやはり川下であったことを後になって知った。
はじめ金津で三国線と乗換えた時に、柏翠と愛子とが迎えに来ているのを人中に見出した。時雨日和であったので、その辺が薄暗く、藁頭巾というものをかぶった人が多い中に、それらの人々にもまれている二人の姿を見出した時は淋しかった。私らはここに来るまで、二人の健康が気にかかっていたのであるが、この時雨日和に三国からここまで私らを迎えに来ているのをまず心強く覚えたのであった。
愛子の家の床脇に愛子によく似た一人の娘さんの大きな写真が飾ってあった。これは愛子の姉さんだそうであるが、若くして亡くなったということである。そのほかにまだ一人の兄さんがあったが、それも若い時分に亡くなったそうである。生きていたらばちょうど柏翠ぐらいの年輩であるとお母さんは話していた。今は親一人子一人で、愛子とお母さんと、それに最近は柏翠と、この三人が、互に頼り頼られて淋しい生活を営んでいるもののようにも見えた。
以前柏翠が鎌倉の家へ来た時分に、
「このごろ、愛子と結婚しようかと思うこともあるのですが……」
と私の顔を見てから、
「二人とも体が悪いのですから……」
と言い澱んだ。私はしばらく考えてから、
「結婚してすぐ不幸な目に逢う人も多いようだから、まあよく考えてからにしたまえ」
と言った。そうして何だか、そんなことは言うべきことでないような心持もしたのであったが、柏翠は決然とした口調で、
「結婚しないことにしましょう。その方が結局二人の幸福ですから」
と言った。私は今まで私のいうことは何でも正直に守る柏翠であることを知っているので、柏翠のこの言葉に対して、惨酷な申訳のないことを言ってしまったように覚えた。しかしそれをまた取消す気にもなれなかった。
柏翠は鎌倉の七里ケ浜の鈴木病院に十年間も入院していた天涯孤独の人で、そこでやはり入院してきた愛子とも逢い、また愛子のお母さんとも心やすくなったのである。愛子が柏翠に俳句を学んだのはそのころである。その後愛子は三国に帰り、柏翠は鎌倉と三国を往来し、今は三国に滞留しているのである。
金沢の俳句会のすんだ翌日、山中の温泉に行くことになって、その俳句会に列席した柏翠と愛子とお母さんと、また愛子の友だちの美佐尾もやはりいっしょに行くことになった。
美佐尾というのは、愛子のお父さんが銀行の頭取をしていた時分にやはりその銀行の重役であった人の娘で、男子を凌ぐくらい立派な体格をしているのであるが、よそに嫁して間もなく不幸にして一人の女の子を速れて里方に帰っておるのである。愛子よりは年上であるが、愛子の俳句の仲間でもあり、また病弱な愛子のために行届いた親切な友でもあった。
その朝早く金沢の宿の廊下で愛子の姿を照らしだした電灯の光は暗かった。「よくおやすみでしたか」と聞くと「よくやすみました」と答えはしたが、顔色も悪く元気もなさそうに見えた。その傍に美佐尾の丈高い幅の広い姿も見えた。
山中に着いた時は非常に寒かった。宿の前の山は一面に紅葉していたが、その全山の紅葉の上に雪がさらさらと降っていた。それが大変に美しかった。寒いのも忘れて、障子を開けて皆それを見ていた。一行は三十人ばかりであった。ハンケチで喉を巻いている愛子も人々に交ってその雪を見ていた。柏翠も襟巻に顔を埋めて同じく人々に交っていた。柏翠は時々咳をしていた。
また一句会はじまった。金沢の俳句会の時もそうであったように、俳句を作らぬお母さんは、句会の間は愛子の後ろに隠れるように坐っていて、一座の邪魔にならぬようにつとめていた。
その晩寒々とした広間に三十ばかりの膳が並べられて皆そこに坐った。それは温泉宿によく見る演芸場の一端であったが、その三十人ばかりの人が、片隅にちまちまとかたまって坐っていた。
例のとおり主催者側の挨拶があってから、盃がまわるにつれてだいぶ皆|饒舌になってきた。一座はざわめきたった。広間の一方にかたまっているように見えた三十人ばかりの人も今は座敷いっぱいにいるようた思えてきた。愛子や柏翠はと見ると皆おとなしく箸を執っていた。美佐尾もお母さんもやはり汁椀を取り上げて顔を半
ば隠していた。
そのうち座を立って私や立子の前に来る人がだんだん殖えてきた。飲みすぎないようにと気をつけていたのではあるが、受けては返す盃が重なってくるのであった。その時私の後ろ脇に来て坐った一人の人があった。それは大阪の本田一杉であった。一杉は小松生れの人でちょうど用事があって帰国したら、私が今日この山中に来たという話が聞えたので、後を追ってきて最前の句会にも列席したのであった。だいぶ席が乱れはじめたころだったので、私の傍に来てこれも私に盃をすすめた。見ると一杉の顔もだいぶ酔がまわっているように見えた。その他人々の顔がたくさん私の前にあったが、それらの人も皆酔うているらしく、しきりに私に盃をさした。その時私の前に来て坐ったのはお母さんであった。
「お慰みに一つ唄わせてもらいましょう」
そう言って謡いはじめた。さびた声で覚えず耳を傾けしめた。この人が三国で鳴らした名妓であったろうということはかねがね想像したところであるが、この俳句会の一行には今までは蔭に蔭にと身を置いて、あるかなきかの存在であったのである。それはそういう風に振舞っでいることが尋常の人ではなかなかできぬことであろうと思われもしたのであるが、その人が今私の前に坐って、目の前に現れて、きちんと座を正して、唄を謡ってくれたということに私の胸は打たれた。「御立派ですね」と讃めることすらがこの人にはおかしいように思われて、私はただ黙って盃をさした。私はこの場合この思いもよらぬ座を引締めた芸の力というよりもこの思いもよらぬ私をもてなすための優れた芸に少し眼がしらが熱くなってくるのを覚えた。
そのうち誰かがすすめたものであったか、またみずから進んでやったものか、お母さんは立上って踊りはじめた。それがまた立派な手ぶりであった。ここにもまた昔の名妓の面影を見ることができて、私の眼からは涙がこぼれ落ちるばかりになった。もとよりそれは酔が手伝ったためでもあった。
その時ふと座を立ってそのお母さんの後ろに立ったのは愛子であった。それがまた踊るのであった。私はあのかぼそい弱々しい愛子がここに現れようとは予期しなかったので、たちまち胸にこみ上げてくるものがあった。
私はついに涙があふれてきた。覚えずハンケチを取りだして歔欷するのを人に見られまいとしたが、及ばなかった。たちまち声を放って泣いた。しばらく経って気がついてみると、私の傍にいた立子も泣いていた。遠くに坐っていた美佐尾も泣いていた。その他の人は皆七十の老翁が声を放って泣くのを怪げんな顔をして見つめていた。第一踊っていたお母さんや愛子は踊るのを止めて、それに柏翠も、心配そうに私の前に来て坐ったが、私はなお泣くのを止めぬために自分らの座に帰って静かに坐った。愛子はしばらく黙ってうつむいていたが、ついにハンケチを顔に当てて泣きはじめた。

私はなぜ泣いたのか、おそらくそれは酔い泣きというものであろう。昔、木賊の翁は、子を失いて信濃のそのはら山で木賊を刈り、道行く人をとめて、子に行き逢うことを望んでいたが、時には子を思うあまりに、盃を啣んで酔い泣くことがあると謡曲にある。私が泣いたのはその木賊の翁の酔い泣きに似ているともいえるであろう。

その翌朝は天気がよかったので皆打ち晴れた顔をして宿を出た。多くの人は北に別れて、私と立子と、愛子、お母さん、柏翠、美佐尾の六人は南下する汽車に乗った。
美佐尾だけ福井で降りてまず三国に帰り、残る五人は敦賀に向ったのであった。
その後私は小諸にいて、浅間の山にかけてすばらしい虹が立ったのを見たことがあった。私は愛子に葉書を書いた。
それには俳句を三つ認めた。

浅間かけて虹のたちたる君知るや
虹たちて忽ち君の在る如し
虹消えて忽ち君の無き如し

4 立原道造「優しき歌
「淺路さんは立原の寝台の下に、畳のうすべりを敷いて、夜もそこで寝ていた。おとなしいこの娘さんは、立原の死ぬまでその傍を離れなかった。どんなに親しくとも男にはできない看護と犠牲のようなものが、殆ど当たり前のことのように行われ、私もそれを当たり前のすがたに見て来たが、それは決して当たり前のことではなかった。そしていまどきの人に出来ることではないと思ったが、それは私の思い上がりで、女の人はこういう恐ろしい自分のみんなを対手にしてやるものを沢山に持ち、それの美徳を女の人は皆匿して生きているように思われた」 室生犀星「わが愛する詩人の伝記」

浅路さん…立原の婚約者、水戸部アサイ。
詩・立原道造、作曲・柴田南雄 OP.13 「優しき歌」独唱、ピアノ 

5 ロス・マクドナルド「縞模様の霊柩車
リュー アーチャーになりたいと思つたことはなかつた。彼は透明人間にすぎない。カリフォルニアやサンタバーバラの乾いた空気に憧れた。

「ALONE TOGETHER」ーアルバム「TAKE TEN」より。Paul Desmond- alto sax, Gim Hall- guitar, Gene Cherico- bass, Connie Kay- drums
作品となつた舞台の青空には、ポール・デスモンドの音色がよく似合ふ。さういへば彼もまたカリフォルニア出身であつた。

6 ワーグナー「ヴェーゼンドンクの五つの歌」マチルデの夢
ワーグナー作曲、マチルデ・ヴェーゼンドンク作詞「ヴェーゼンドンクの五つの歌」第五曲
ワーグナーは、当時愛人だつたマチルデ夫人に、誕生日のプレゼントとしてこの曲を贈つた。「トリスタンとイゾルデのための習作」といふタイトルがつけられてゐる。

波うつ潮のなかに 高まる響きのなかに 世界の息のかよふ万有のなかに 溺れ 沈み 意識なき至上の快楽よ   
ワーグナー「トリスタンとイゾルデ~愛の死」  

7 スタンリィ・エリン「鏡よ、鏡
「カルミナ・ブラーナ」…ソプラノ、テノール、バリトン及び合唱のための世俗的歌曲。カール・オルフ作曲、1937年初演。
「鏡よ、鏡」、スタンリィ・エリン作、1972年、帯封つき代金返却保証のかたちで出版された。

「オリム・ラクス・コルエラム、Olim lacus colueram」、カルミナ・ブラーナ第十二曲。

「昔は私も湖水に住まつてゐた、昔は私も美しい姿をしてゐた。私が以前、白鳥だつた時分には。なんとまあ情けないこと、今は、まつ黒焦げにされちまって。 くるぐる、またぐるぐると焼串持ちが回してゆく、今では私を給仕男が配つてゆくのだが、私を薪がすつかり焦がして、何とまあ情けないこと、今はまつ黒焦げにされちまつて。 今では角皿の上に載せられ、飛び回ることもできない、がちがち咬み合ふ歯がみえる。何とまあ情けないこと、今はまつ黒焦げにされちまって」  

8 小川未明「赤い蝋燭と人魚」北方の海の色は
「あるとき、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色をながめながら休んでいました。なんというさびしい景色だろうと人魚は思いました。自分たちは、人間とあまり姿はかわっていない。それだのに、やはり魚や、けものなどといっしよに、冷たい、暗い海の中に暮らさなければならないというのはどうしたことだろうと思いました。せめて、自分の子供だけは、」 

「赤い蝋燭と人魚」小川未明作、1921年。 
交響詩「人魚姫」、アレクサンダー・ツェムリンスキー作曲。  

9 シェーンベルク「グレの歌」憩えかし!
「グレの歌」ペーター・ヤコブセン原作、アルノルト・シェーンベルク作曲。

「海にも陸〈くが〉にもありしざわめきは、たそがれの訪れにより鎮められぬ。 飛びゆきし雲も天空の隅に、安らかにとどまりたりき。 静寂は森をつつみ、おもむろに闇にとざされゆく。 青き海、汝は自らゆりかごをゆり、眠りを誘いよせたり。 西空に陽は紫の光をなげかけつつ降り行き、明日の栄光を海のしとねのなかに、夢みんとすなり。 鬱蒼たる森林のなかには、木の葉一つそよとだにせず、いとかすかなる物音も耳にはいらず。 わが魂よ、憩えかし!」

10 ディーリアス「田園詩曲」
邦題、「田園詩曲」…ウオルト・ホイットマン原作、フレデリック・ディーリアス作曲、1932年。

ソプラノ、バリトン、管弦楽のための音楽。 ディーリアスの音楽の中で一番好きな作品。「トリスタンとイゾルデ」の、はるかなる谺。
WOMAN I ascend, I float to the regions of your love, O man, All is over and long gone, but love is not over. MAN Dearest comrade, love is not over.

11 スコット・フィッツジェラルド 村上春樹 訳「冬の夢」
ミネソタ州にあるホワイト・ベア湖が、「冬の夢」の舞台、ブラック・ベア湖のモデルとなつた場所である。村上春樹は招かれて、湖畔のウオルトン夫妻を訪ねる。夫人に一番好きなフィッツジェラルド作品はと問はれ、村上は答える。

「そうですね、『グレート・ギャツビー』は何と言っても文句なく素晴らしいと思います。」と僕は答えた。「でも個人的にということであれば長編なら『夜はやさし』、短編なら『冬の夢』が好きです。」
「私とまったく同じセレクションね。」とウオルトン夫人はにこにこしながら言った。「特に『冬の夢』は昔から好きで何度も読みかえしているのだけれど、何度読んでも飽きることがないのよ。」
僕もそれに同意した。「冬の夢」にはフィッツジェラルドの小説を構成する主要なファクターが実に無駄のない素直なかたちで凝縮されている。甘く哀しく苦く、救いがない。

村上春樹「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」より「ホワイト・ベア湖の夢」

12 小川未明「金の輪」
二人の子供を亡くした体験から生まれた作品とも言はれてゐるが、怖い作品。怖いと言へば、未明といふ筆名にも、私は不気味さを感じる。すなわち、 未だ明るからず。この筆名は、彼が在学中、師の坪内逍遙によつて与へられた。
曰く、「ゲーテは、美はトワイライトにありと言つたが、同じ薄明でも、黄昏は、これから暗くなるのだし、暁は、これから明るくなるのだから、『未明』がよからう。」

13 ライト設計「ピーターソン コテージ」・浪のしたにも都のさぶらふぞ
君とまたみるめおひせば四方の海の水の底をもかつき見てまし

幼馴染みの彼は、アメリカに旅立つた。ウィスコンシン州にあるミラー湖の辺のコテージに、二泊の予定だつた。だが無事に到着したといふ連絡を最後に、戻ることはなかつた。

子供時代、彼の好きな童話は、アンデルセンの〈雪の女王〉だつた。そして、まゆちゃんのことを〈ゲルダ〉みたいだと言つてゐた。それで私たちは、彼のことを〈カイ〉とよんだ。〈ゲルダ〉に対しての〈カイ〉といふ意味と、彼の名の漢字には、〈貝〉がふくまれてゐたからである。
彼は失はれた〈まゆちゃん〉を求めて、山荘を彷徨ひでたのだらう。カイがゲルダを探し求めて…、オルフェのやうに。

わたしのユーリディス、今夜はまるでお前が近くにゐるやうだ
お前が目に見える、たしかに見える。
いとしい人
お前がたしかに見える、お前をこの手に…夢ではないのか
いや、いや
これは本当だ、わたしは死ぬのだ

ダリウス・ミヨー作曲 歌劇〈オルフェの不幸〉


Frank Lloyd Wright:Seth Peterson Cottage,Lake Delton Wisconsin

ミラー湖南岸の岩棚に建つこの珠玉の小品には、ロックスプリングス近郊で採れる天然の赤味がかった砂岩、フィリピン・マホガニーの合板パネルと装飾板が使われている。湖は1860年にデル川を堰き止めて造られた。この人里離れた82平米の住宅は、ライト最晩年の住宅作品である。暖炉が正方形プランの中央にあり、その組積みの壁が建物の南側を二つに分割している。このようにワークスペース、つまり台所で空間を区切ることにより、ライトはワンルーム住宅に近いものを作り出している。扉を要するのは浴室だけである。三方を壁に囲まれた台所は天窓から採光している。
このコテージは、ミラー湖州立公園の西端に位置し、1966年にウィスコンシン州天然資源局が取得して以来、荒廃するに任された。コテージは国定歴史地区登録物に加えられている。1989年にミラーレイク協会が、20万ドル以上と見積もられた費用をかけてコテージを保存、修復するため委員会を結成した。修復はセス・ピーターソン・コテージ保存協会が行った。現在建物は有料で借りることができる。

14 川端康成「伊豆の踊子」
「少し話してから彼は言つた。
〈何か御不幸でもおありになつたのですか〉
〈いいえ、今人に別れて来たんです〉
私は非常に素直に言つた。泣いてゐるのを見られても平気だつた。私は何も考えてゐなかつた。ただ清々しい満足のなかに静かに眠つてゐるやうだつた。

私はどんなに親切にされても、それを大變自然に受け入れられるやうな美しい空虚な氣持だつた。何もかもが一つに融け合つて感じられた。
船室の洋燈が消えてしまつた。船に積んだ生魚と潮の匂ひが強くなつた。眞暗ななかでしょうねんの體温に温まりながら、私は涙を出委せにしてゐた。頭が澄んだ水になつてしまつてゐて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も殘らないやうな甘い快さだつた」

あなたはどこにおいでなのでせうか。
花のやうに咲ふあなたは、いまどこにおいでなのでせうか。

いい人ね
それはそう、いい人らしい
ほんとにいい人ね、いい人はいいね

遠くから微かに太鼓の音が聞えてきます。
あなたはどこにおいでなのでせうか。

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