リルケ譯:ポルトガル文

L c r
ポルトガル文

最初の手紙
あんなにして、行つておしまいになつたのですもの。悲しくて、悲しくて、どう思案してもつれない御仕打ちを、うまく言い表す言葉は見つかりません。豊かな愛情を湛へた瞳。胸をときめかせて覗いた瞳。嬉しさで私の胸をいっぱいに膨らませて呉れた瞳。此の瞳さへ私にあれば、他に何も要らない。物思はなかつた昔に、嬉しがつてゐたものを皆、束にして取り替へてもいいとさへ思つてゐた瞳。私にその目を永遠に見てはいけないと言ふことですもの。私の目を生かして呉れた、唯一つの灯火を無くしたのです。残つたものは涙だけ。私は自分の目を一切他の事に使はないで、涙を流す泣き虫になつてしまいました。貴方はお帰りにならないことに決まつたと聞かされてからは、ずつと泣き通しです。今日明日にでも息の根が止まりさうです。でも、貴方が故の不幸であつてみれば、不幸にさへそこはかとない執着を感じるやうな気持にもなります。何方道、私の命は、初めてお逢いした時より、貴方のものだつたのですから、生贄になつて命を落としても、私は喜ばなければならない筋合ひです。私は千度も溜息を空に放つて貴方の跡を追はせます。溜息はお立ち寄りの先々までも、貴方を尋ねて旅をします。でも、帰つてくるどの遣ひも、私がやつとの思ひで堪へてゐる胸騒ぎなど素知らぬ顔で、土産には、安心を許さない不幸が起きてゐることを、あからさまにした報告を繰り返すのです。

「およし、不幸なマリアンナよ。恋焦がれて窶れても詮無いこと。二度と逢はない恋人の後を追ふのは。あの人はお前から逃げて海を渡つたのだよ。今頃は嘆いていようかなどと、優しく思つてくれる暇はありゃしないよ。あの人はお前に、此程の苦しみまでさせて、女の思ひつめた気持ちなど、大して有り難くも思はない御人だよ」

私を御忘れになつたのではないかと、疑う気にはなりません。今の私には此れだけでも不幸過ぎるのに、此の上、無い事迄邪推して自分を苦しめたとて、何になりませう。昔、貴方が私を愛してゐて下さる事を知らせる為に、色々な御心遣いを頂いたのに、態と、もう覚えてもゐないやうな顔をしていいものでせうか。私はお優しい御心尽くしにすつかりのぼせてしまいました。私が情熱の赴く侭に、貴方の情熱の印を受け取つてゐた頃と同じ激しさで、此れから先も私は貴方を愛します。あんなに嬉しかつた幾つかの瞬間の事を思い出してゐるうちに、掌を返すやうに酷い事に変つてしまふーーそんな事が有つてよいのでせうか。嬉しい思ひ出は、飽く迄も嬉しい筈なのにそれが原因で、我と我が心を邪険に扱はなければならぬーーそんな筈はないでせうに、ああ、でもこの間の御手紙は、私の心臓を思ひもかけぬ目に逢せてしまつたのです。それは身体中に響き渡る程、激しく動き始めました。屹度、体から抜け出して貴方の御側に行こうとして踠いてゐるのだわ、と私はさう思ひました。その暴れ方が物凄く、私は圧倒され、三時間以上気を失つてゐました。私はもとの命に帰るのを嫌つて、反抗しました。元々、此の生命は貴方の為に捨てる他ないのです。だつて、貴方の御手許から取り戻しては、駄目になるんですもの。私は結局、此の世の中の日の目を又仰ぐ事になつたのですが、それは、私の本意ではなかつたのです。

私はかうして、焦がれ死にに、死ぬのだわと思つた時、満更悪い気もしませんでした。貴方がいない悲しさに掻きむしられた自分の心臓を、黙つて見てゐなければならない苦痛を、いっそ綺麗さつぱりと免れたほうが、私には有り難かつたのです。御目にかかれない間、何の苦労もしないで済ませるものでは御座いませんもの。どんな苦労だつて愚痴ひとつこぼさずに、立派に辛抱して御目にかけます。苦労とは名が付いてゐても皆、貴方が元ですもの。ひと言仰言つてください。真心込めて愛した私に、貴方様の御返事は、こんな事で宜しいのでせうか。其れも、どうだつてよい事にしておきます。

私は覚悟を決めました。一生貴方をお慕いゐたします。他の男の人には目もくれません。そして貴方に断言できることが御座います。どなたもお好きにならない方が御為です。他の人の情熱は、私の情熱に及びません。屹度、貴方は満足出来ない筈です。私など及ばないやうな美人を探し出す事は、御出来になれるでせう。(もっとも、私には何時か、お前は本当に綺麗だと言つて下さいましたわね)しかし、決して、決して、こんな沢山の愛情は見つかりますまい。だって、愛情以外のことは何も問題ではない。と仰ったのは何方でしたでしよう。御手紙を下さるのでしたら、今更何の足しにもならない事で、埋めないで下さるよう。僕の事を思い出せなどと、お書きにならないで。私は貴方を忘れた間も御座いません。又帰つて、暫く一緒に暮らすから楽しみにせよ、との御言葉は、決して忘れは致しません。

ああ、何故、一生添い遂げやうと、言つては下さらないのですか。此の嫌な修道院を抜け出せるものなら、何で此の葡萄牙に留まつて、約束の日が来るのを手を束ねて待ちませうか。まっしぐらに飛んで行つて、世界の隅々まで貴方を尋ね、貴方の後を追つて行つて、貴方を愛して差し上げます。でも、こんな事がそう易易と出来る等と、自分を甘やかす気にはなれません。儚い希望を育んで、悦に入り、気を紛らさうとも思ひません。此れからは、只悲しみにだけ心を開いて、他のものには決して受けつけまいと思つてゐます。でも、兄が気を利かせて、御手紙を差し上げる機会をつくつてくれ、心のなかに仄かな嬉しさを呼び覚ましてくれた事と、絶望の毎日をひと時でも中断してくれた事とは、勿論、私は率直に認めます。

私、貴方に御願いが御座います。仰って下さい。何時かは捨てると知りながら、何故、あんなにして迄、私の心を虜にしやうとなさつたのですか。私を不幸にするために、何故、あんなに一所懸命におなりだつたでしょうか。何故、修道院の中に、私をそつとして置いては下さらなかつたのです。私は貴方様に何か悪い事をしたからですか。どうぞ許して。貴方を責めてゐるのではないの。私は意趣晴らしなど考える事は出来ません。只、無慈悲な運命を嘆くだけです。運命の神は、二人の仲を割いてからは、私達の上には、凡そ考えられる禍で、加へないものは無いやうな気がします。でも、二人の心までは裂くことは出来ません。運命の力よりも強い恋の女神が、二人の心を一生睦み合うやうに結びつけた故に。
私の心の事を、幾分でも御心配下さるなら、度々御便りを下さるよう。貴方と私の仲ですもの、御面倒でも、御気持ちや暮らしの御様子等を知らせるくらいの労は、お取り下さるやうに。御便りよりも何よりも、いらしていただきたいのです。さようなら。私はこの手紙から離れたくもありません。でも、此の手紙は貴方の御手に抱かれるのですね。私にもそんな幸福が、それも近いうちに恵まれたら、どんなに嬉しいでせう。聞き分けのない女です。出来もしない相談といふ事は、よく存じてゐますのに。さようなら。私を愛して。何時までも。そして、此の上辛い事が積もつても辛抱出来るやう、御力を貸して下さいまし。

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