堀辰雄「若菜の巻など」

l   r
源氏

源氏物語五十四帖、あの大きな物語では、僕なんぞのやうな初心者には光源氏を中心にした巻々よりも、薫の宇治の十帖の方がどうも入り易いし、親しみやすいやうに思はれるものです。それで僕もこつちは少々讀んでをりますが、事實、折口さんのお話では、文章もずつとやさしくなつてゐるさうです、…それは一つは薫とか、總角の君とか、浮舟などの、やや近代小説にでも出てきさうな面白い性格をもつた人物が出てくるせゐでせうが、折口さんなんぞにはさういふところが却つて物足りなく思はれるのでせうか、控え目にですが、それよりも「若菜」上下を推賞せられて居りました。

この巻あたりまで來ると、どの人物の背後にも、目に見えずに過去がうづたかく堆積してゐて、それが彼らの現在の上に暗い影を落とし、それを何といふ事なしに支配しはじめてゐる、…さういつた不気味な思ひさへがする。しかも、彼らのおもてだつた生活は相も變らず單調なまで花やかなのです。

光源氏といふものを、或る意味で日本古代の最後のトラヂックな人物のやうに考へなければいけないのではないかと考へるのです。トラヂディといふ語を悲劇と譯したのではこの場合どうもまづい、鷗外流に悲壮劇とでも譯したらまあ感じがでませうが、本來のトラヂディといふものは、本当に崇高な人物が、運命の抵抗に遭つて、さまざまな苦しみをしつつ、その生涯の何處かに人知れぬ涙の痕をにじませながらも、しかもその生得の崇高さを少しも失はずに、最後まで生き抜く、さういつたものなのではないでせうか。

さういふ本當の意味でトラヂックな古代人は、この光る源氏において初めて文學に現はれたのではなく、もっとわれわれの身近い血縁のなかにそれを見出し得るのではないか、それも既に折口さんが暗示せられてゐるやうに、遠い神代の、長い苦しい征伐の旅をつづけられた若い王子が、その果ては白鳥となつて天翔けられたといふ、あの悲壮な物語が、次第に人間化せられた物語となりながらこんなところまで姿を變へて來た、と考へることが出來たなら、大へん愉󠄁快なのではないでせうか。そして折口さんの考へられるやうに、そのやうな神に近かつた若い王子の旅の物語の、はたの目から見ると大へんおいたはしい、さういふ漂泊の悲しみのやうなもののみが次第に人々に強調せられて、それを一層現世的にするために、その漂泊の原因に女性を結びつけて考へるやうになつてくる。先づ、いかにも古代の人々に愛せられたらしい、輕太子との哀切な情史が其處にある。それがいくつかの似たやうな物語ーー例へば萬葉集の石上乙蔴呂の流離の歌や、中臣宅守と狹野茅上娘子との悲戀の相聞のやうなものーーに次から次へと姿を變へながら、ずつと平安朝まで續いてくる。そして其處に、不遇な業平をそれとなく主人公のやうにした伊勢物語がある。次いで、それが光源氏の物語において完成せられる。そして甚だわれわれを悲しませることは、それを最後のそして最高の完成として、さういふ優れた人間の典型は以後の文學から全く跡を絶つてしまつたのです。

homegallerynotes

home

notes16

gallery16