エミリ・ブロンテ「嵐が丘」

海くれて   若菜の巻
嵐が丘

He's more myself than I am. Whatever our souls are made of, his and mine are the same.

〈嵐が丘〉を読む経験…、私にとってそれは、快楽であると同時に、何かとてつもなく恐ろしいものです。偉大な作品というのは、必ずどこか遠いところまで連れてゆかれるものですが、〈嵐が丘〉の場合は、これ以上先へ行ってはならぬという、まさにぎりぎりのところまで連れてゆかれるような気がします。読み終わって本を閉じると、あたかも穴ぐらから生還したように陽の光がまぶしい。
思うにこれは〈嵐が丘〉という作品そのものが、〈目に見えない世界〉を中心に据えているからではないでしょうか。
〈嵐が丘〉の特異な構造は、ヒロインのキャサリンが小説の真中で死んでしまうというところにあります。そこからロマンスは復讐劇に急展開し、ヒースクリーフが過去に恨みをもつ人間を次々と不幸に陥れていく物語に変わる。でもあのヒースクリーフの黒い情熱を、〈目に見える世界〉…生者の世界の枠の中で理解しようとするのは、不可能なのです。
ヒースクリーフの怨念はたんに執拗なのではない。彼の怨念は、現実に対して必然的に過剰なのです。そしてそれは、彼の目が、〈目に見えない世界〉を凝視しているからにほかなりません。その世界はキャサリンが棲む死者の世界でもありますが、それ以上に、この世を超えるものを指し示す世界です。この世を超えるものの存在を知る人間にとってのみ存在することによって、必然的に過剰なものを現実にもちこんでしまう世界なのです。ヒースクリーフとキャサリンの愛。この世を超えた、あの愛の絶対性が見えない人間…この世を超えて、そのようなものが存在するのを知らない人間…彼らにとっては、あの二人の愛も存在しないのです。 水村美苗

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