石井桃子「ノンちやん雲に乗る」

わたしを離さないで c 佐藤春夫「車塵集」
のんちゃん

ある春の朝
「いまから十四五年まえの、ある晴れた朝のできごとでした。いまでいえば東京都、そのころでは東京府のずつとずつと片隅にあたる菖蒲町という小さな町の、またずつとずつと町はずれにある氷川様というお社の、昼なお暗い境内を、ノンちやんという八つになる女の子がただひとり、わあわあ泣きながら、つうつうはなをすすりながら、ひょうたん池のほうへむかつて歩いておりました」
ー略ー
「ノンちやんは泣かなければなりませんでした。
わけというのは、こうでした。その朝、ノンちやんは、その日のおてんとさまとおんなじくらい、はればれと目がさめたのです。
トントン、トントン、トントントン…
お勝手で、おかあさんが、おみおつけの大根を切つている音がしました。ノンちゃんの胸が、なんということもなく、うれしさでぷうとふくれました。マナ板の上にもりあがる、水けをふくんだまつ白い、四かくい、細い棒の山を心にえがきながら、ノンちやんはもう一度目をつぶつて、ぼうと、朝寝のあと味をたのしんでいました。
大根のおみおつけ……二日つづきのおやすみ……トシ子おばちやんが泊まりにきてる!
つぎつぎに浮かんでくるのが、うれしいことばかりです」

胸をふくらませておきたノンちやんは、おかあさんがゐないのに気づいた。それにくわへて、にいちやんの姿もない。二人はノンちやんにはないしよで、東京へ行つたのであつた。ノンちやんは大声で泣きながら……

「門をでて、麦畑のあいだの道をちよつといくと、そこはもう氷川様の境内でした」
ー略ー
「エスも、ノンちやんの足にからだをすりつけて、キュウキュウ、ひくく泣きました。ノンちやんはしやがんで、エスの背に手をかけ、そうして、ふたりは、かがやく池をまえに、同じ心で泣いたのです。
池は、四五日の雨で水かさがまして、ノンちやんのすぐ足もと近くまで、水が来ていました。その水の上に、しずかな空がうかんでいます。ああ、なんて深い空でしよう。もう一つの世界が、水のなかに、そしてノンちやんの足の下の土のむこうがわにあるようです」

池のうえにはりだした、もみじの枝に、にいちやんのまねをして乗つたノンちやんは、枝が折れて水に、いや空に落ちたのであつた。

「白く光る水と黒い土が、ノンちやんめがけて、ゆつくりもちあがつてきました」
ー略ー
「あ、くるし、おかあさん……と思うまもなく、うッと胸をおされ、せまい穴をむりにくぐりぬけるような感じがして……つぎの瞬間、ノンちやんのからだは、ふわッと空中にうかんでいました」

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