丸谷才一「吉野山はいづくぞ」

檀一雄「モガリ笛」 c 永井荷風「あめりか物語」
丸谷才一「『梨のつぶて』・吉野山はいづくぞ」

彼は、古歌の解釈や歌会の作法、歌人の逸話や幼少のころの思いでの合間に、じつに平然と、恐ろしい言葉を書き付ける。
『よしの山はいづくぞと、人たづね侍らば、ただ花にはよし野、もみじにはたつたをよむことと思ひ侍りてよむばかりにて、伊勢やらん、日向やらんしらずと答ふべきなり。いづれの国と才覚はおぼえて用なし、おぼえんとせねども、おのづからおぼえらるれば、よしのは山としるなり。』

まず問題なのは、吉野を詠んだ古歌を正確に読みさえすれば、吉野が山であることは自然に判るし、またそれだけで十分だと彼が述べていることである。

それは、文学から文学外的な要素をことごとく捨て去って、それにもかかわらず最後に残るもの…すなわち純粋な文学を手に入れようとする決意であった。

つぎにここにあるものは、ほとんど激越とさえ言って差支えないほどの、伝統尊重の態度である。彼にとっては吉野山は、大和の国にも伊勢にも日向にもなく、『古今集』から『源氏物語』と定家を経て自分じしんへと至る伝統のなかだけにあった。

正徹は摂津へ行ったことがたぶんあるだろうが、しかし『草根集』のなかの絶唱の一つ、

三島江や霜にをれふすあしづつのあらはに薄く氷る浪哉

が作られるためには、『古今集』の、

みしまえや霜もまだひぬあしの葉につのぐむ程の春かぜぞ吹く

さえあればよかったことは確かなのである。文学から文学を作ること…それが正徹の方法であった。
もちろん定家は文学から文学を作ったし、名所づくし『内裏百首』の作者は歌枕へ旅する必要がないことを知っていたに相違ない。それまでの約束事を定家は方法へとまで高めたのだと言ってもいいだろう。しかし正徹はもっと革命的に、歌枕が実際の地名であることを忘れねばならぬと自分じしんに強く要求することによって、文学者の態度に、そして文学史に、新しい局面を開いたのである。
『ただ花にはよし野。』文学の伝統だけが、言葉だけが彼の世界となり、それ以外のすべては消え失せ…言葉の花が匂やかに咲き誇る。ちょうど室町時代が文弱という言葉を知らないように、東福寺の徹書記、招月庵主人は実生活という言葉を知らなかった。
こうして定家の『余情妖艶』はさらにいっそう退廃の度を加え、日本の中世文学は一頂点に達するのだが、しかし、芸術においては退廃は衰弱を意味しないことは、『草根集』のなかのもう一つの絶唱の、壮大と繊細、清麗と雄渾がはっきりと証してくれるだろう。

おきつかぜ西吹浪ぞ音かはる海の都も秋やたつらむ

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