江国香織「神様のボート」 |
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ドアがあいたとき、私には、振り向いてみる必要はなかった。 店の中は暗く、混んでいて音楽も聞こえ、足音とか気配とか、そういうものはかき消されてしまう。それよりももっとずっと強いもの、個体としての、温度、のようなもの。力、のようなもの。あのひとだ、と、わかった。 きのうも合い、約束をして、一日別な場所で働き、約束どおり今日も会う。それほどの自然さで、ああ、あの人だ、と、そう思った。 信じられない、と思ったのか、やっぱり、と思ったのか、区別がつかない。 あの人はゆっくり近づいて、私のうしろに立ち、右手でそっと、私の右頬にさわった。 「ひさしぶり」 穏やかな、なつかしい、私を骨抜きにする、いつもの声だった。 |
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