川端康成「反橋」

父が庭に   私の食物誌  
反橋 あなたはどこにおいでなのでせうか。
仏は常にいませども現ならぬぞ哀れなる、人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ。
この春大阪へ行きましたとき住吉の宿で、梁塵秘抄のこの歌を書いてゐる友人須山の色紙を見ました。須山がなくなる前の年にあたるやうであります。
なくなつた友人が書いたのとおなじ色紙がまだ残つてをりまして、私にもなにか書くやうに頼まれましたから、その一枚には、
夜や寒き衣やうすきかささぎのゆきあひのまより霜や置くらむ
と住吉の歌を、もう一枚には、
住吉の神はあはれと思ふらむ空しき舟をさして来たれば
の古歌を書いてみました。
後三条天皇の空しき舟とはどういふおつもりだつたのでありませうか。私自身にとりましてはこの空しき舟は私の心にほかならないやうに、私の生にほかならないやうに思へてしかたがないのであります。
私が五つの時に住吉神社の反橋を渡つたことがあるかないか、それが私には夢やうつつや夢とわかぬかなであります。
五つの私は母に手を引かれて住吉へ参りました。反橋はのぼつてみると案外こわくありませんでした。その橋の上で母はおそろしい話を聞かせました。
母の言葉ははっきりおぼえてをりません。母は私のほんたうの母ではないと言つたのでありました。私は母の姉の子で、その私のほんたうの母はこのあひだ死んだと言つたのでありました。
私の生みの母の家も育ての母の家も住吉からさう遠くない土地にありましたけれども、私は五つの時から二度と住吉へ行つたことがありませんでした。それがもはや生にやぶれ果て死も近いと思はれる今、もう一度だけ住吉の反橋を見たいといふ心に追ひ立てられるやうに来たのでありましたが、その住吉の宿ではからずも須山が書きのこした色紙にめぐりあひましたのはなにかの因縁でありませうか。
仏は常にいませどもうつつならぬぞあはれなるとつぶやきながら私はあくる朝住吉神社へ行つてみますと、遠くから見る反橋は意外に大きくて、五つの弱虫の私が渡れさうには見えませんでしたが、近づいてみて笑ひ出してしまひました。橋の両側に足をかける穴がいくつもあけてありました。もちろん五十年前の橋板が今もそのままなのか、私にはわかりませんけれども、しかし欄干につかまりながらその穴を足だよりにのぼつてみますと、穴から穴は少し遠くて五つの子供の足ではとどきさうにもありません。反橋をおりきつたところで私は深いためいきを吐いて、私の生涯にもこの穴のやうな足場はあつたのかしらと思ひましたが、遠いかなしみとおとろへとで目先が暗くなりさうなのをどうするこいとも出来ませんでした。
あなたはどこにおいでなのでせうか。
 
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