塩野七生「レパントの海戦」

安東次男「花づとめ」 c レパントの海戦
レパントの海戦

レパント……千五百七十一年十月七日・夜
「アゴスティーノ・バルバリーゴの頭のなかに、このとき突然、フローラの姿が浮かんだ。はじめは、彼女がいつもしていたように、男の右腕に自分の頭をあずけて身を寄せる姿で。そして、次は、男の首に手をまわしたまま、全身をゆだねるフローラを。想い出は、過去へ過去へとさかのぼるようだった。彼女にはじめて会った聖ザッカリーア教会前の広場でのことが、昨日の出来事のように生き生きと、瞼に浮かんだ。息子が、まるで子犬のように母親にまつわりつきながら、さかんになにかを語りかけ、それに母親が、優しく答えてやっている光景だった。
バルバリーゴは、はじめて心の底から微笑した。そして、思った。あの息子がいるから、フローラは生きていけるだろう。それに、死んだ後はなおさらわたしが、彼女のそば近くで守っていることもわかってくれるだろう。この二つのことをささえにして、女は生きつづけていくだろう。
もう、痛みは感じなくなっていた。ただ、どうしようもなく強い力で、眠気が襲ってくる。男は、再び女の姿を思い浮かべようとつとめた。だが、少し前まではあれほども鮮明に見えたものが、もう見えなくなっていた。突然、ほんとうに突然に、手に女の肉体を感じた。長い髪をなで分けてやったときに感じた、女のやわらかい豊かな髪と、冷たいひたいの触れ具合と細いうなじと。そして、ほほえんでいるのに頬を流れる涙を、指先でぬぐってやったときの感触…。

従僕が船倉に入ってきたとき、ヴェネツィアの海将は、すでに息をしていなかった。ヴェネツィア共和国政府のまとめたレパントの海戦記録は、次の一行をこの男に捧げている。

参謀長(プロヴェディトーレ・ジェネラーレ)アゴスティーノ・バルバリーゴは、自ら望んだ死を、最も幸福な中で迎えた。」

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