幸田露伴「幻談」

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徳川期もまだ末にならない時分の事、江戸は本所の方に住んゐた旗本で、小普請入になり、小普請になつてみれば閑で、御用は殆どないので、釣を楽みにしてゐた。或日のこと、例の如く船頭の吉の舟で釣りに出たが全く釣果がなく、船頭が江戸に向けて漕ぎ始めると、暗い海面に釣竿らしき物が突き出してゐる。側に漕ぎ寄せると、俯せの溺死体が水面に浮いてゐた。手には確り竿を握つてゐた。竿だけ引き抜こうとしても、どうしてもとれない。仕方なく指を折るやうにして竿を手にいれ、その日の釣果の代わりに帰路についた。船頭の吉の言ふには、野布袋といふ逸品らしい。

「いつもの河岸に着いて、客は竿だけ持って家に帰ろうとする。吉が「旦那は明日は?」、「明日も出るはずになっているんだが、休ませてもいいや」、「イヤ馬鹿雨でさえなければあっしゃあ迎えに参りますから」、「そうかい」と言って別れた」

幻談

あくる朝起きてみると雨がしよしよと降っている。しょうことなしに書見をしてゐると、昼頃になつて吉がやつて来た。「もう雨があがるに違えねえ」と言ふ。雑談をしてゐるうちに、雨がきれかかりになつたので、舟をだした。

「 さあ出て釣り始めると、時々雨が来ましたが、前の時と違って釣れるわ、釣れるわ、むやみに調子の好い釣になりました。とうとうあまり釣れるために晩くなって終いまして、昨日と同じような暮方になりました。それで、もう釣もお終いにしようなあというので、蛇口から糸を外して、そうしてそれを蔵って、竿は苫裏に上げました。だんだんと帰って来るというと、また江戸の方に燈がチョイチョイ見えるようになりました。客は昨日からの事を思って、この竿を指を折って取ったから「指折リ」と名づけようかなどと考えていました。吉はぐいぐい漕いで来ましたが、せっせと漕いだので、艪臍が乾いて来ました。乾くと漕ぎづらいから、自分の前の処にある柄杓を取って潮を汲んで、身を妙にねじって、ばっさりと艪の臍の処に掛けました。こいつが江戸前の船頭は必ずそういうようにするので、田舎船頭のせぬことです。身をねじって高い処から其処を狙ってシャッと水を掛ける、丁度その時には臍が上を向いています。うまくやるもので、浮世絵好みの意気な姿です。それで吉が今身体を妙にひねってシャッとかける、身のむきを元に返して、ヒョッと見るというと、丁度|昨日と同じ位の暗さになっている時、東の方に昨日と同じように葭のようなものがヒョイヒョイと見える。オヤ、と言って船頭がそっちの方をジッと見る、表の間に坐っていたお客も、船頭がオヤと言ってあっちの方を見るので、その方を見ると、薄暗くなっている水の中からヒョイヒョイと、昨日と同じように竹が出たり引込んだりしまする。ハテ、これはと思って、合点しかねているというと、船頭も驚きながら、旦那は気が附いたかと思って見ると、旦那も船頭を見る。お互に何だか訳の分らない気持がしているところへ、今日は少し生暖かい海の夕風が東から吹いて来ました。が、吉は忽ち強がって、
「なんでえ、この前の通りのものがそこに出て来る訳はありあしねえ、竿はこっちにあるんだから。ネエ旦那、竿はこっちにあるんじゃありませんか」
怪を見て怪とせざる勇気で、変なものが見えても「こっちに竿があるんだからね、何でもない」という意味を言ったのであったが、船頭もちょっと身を屈めて、竿の方を覗く。客も頭の上の闇を覗く。と、もう暗くなって苫裏の処だから竿があるかないか殆ど分らない。かえって客は船頭のおかしな顔を見る、船頭は客のおかしな顔を見る。客も船頭もこの世でない世界を相手の眼の中から見出したいような眼つきに相互に見えた。竿はもとよりそこにあったが、客は竿を取出して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言って海へかえしてしまった」

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