夏目漱石「『夢十夜』・第一夜」

ナラタージュ   ムーンリバー    
夢十夜   しばらくして、女が又かう云つた。
死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘つて。さうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。さうして墓の傍に待つてゐて下さい。又逢ひに来ますから
自分は、何時逢ひに来るかねと聞いた。
日が出るでせう。それから日が沈むでせう。それから又出るでせう、さうして又沈むでせう。ー赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、ーあなた、待つてゐられますか
自分は黙つて首肯た。女は静かな調子を一段張り上げて、
百年待つてゐて下さい,と思ひ切た聲で云つた。
百年、私の墓の傍に坐つて待つてゐて下さい。屹度逢ひに来ますから。
自分は只待つてゐると答へた。すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうつと崩れて来た。静かな水が動いて寫る影を亂した様に、流れ出したと思つたら、女の眼がぱちりと閉ぢた。。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。ーもう死んで居た。
自分は夫れから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘つた。真珠貝は大きな滑かな縁の鋭い貝であつた。土をすくふ度に、貝の裏に月の光が差してきらきらした。濕つた土の匂もした。穴はしばらくして掘れた。女を其の中に入れた。さうして柔らかい土を、上からそつと掛けた。掛ける度に真珠貝の裏に月の光が差した。
それから星の破片の落ちたのを拾つて来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かつた。長い間大空を落ちてゐる間に、角が取れて滑かになつたんだらうと思つた。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなつた。
自分は苔の上に座つた。是から百年の間かうして待つてゐるんだなと考えながら、腕組みをして、丸い墓石を眺めてゐた。そのうちに、女の云つた通り日が東から出た。大きな赤い日であつた。それが又女の云つた通り、やがて西に落ちた。赤いまんまでのつと落ちて行つた。一つと自分は勘定した。
しばらくすると又唐紅の天道がのそりと上つて来た。さうして黙つて沈んで仕舞つた。二つと又勘定した。
自分はかう云ふ風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせない程赤い日が頭の上を通り越して行つた。それでも百年がまだ来ない。仕舞には、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思ひ出した。すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い莖が伸びて来た。見る間に長くなつて丁度自分の胸のあたり迄来て留まつた。と思ふと、すらりと揺ぐ莖の頂に、心持首を傾けてゐた細長い一輪の蕾が、ふつくらと瓣を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹へる程匂つた。そこへ遙の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思はず、遠い空を見たら、曉の星がたつた一つ瞬いてゐた。
百年はもう来てゐたんだな、と此の時始めて氣が付いた。
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