江藤淳「幼年時代」

ピアノソナタ111     空へのファサード
幼年時代

 四通のなかで一番日付の旧いこの手紙を読み 終わったとき、私は何とも名状しがたい想念 がこみ上げて来るのを抑えることができなか った。
 自分のことを他人事のように、へえ、そうか 、やっぱりそうだったのかと、はじめて生み の母の筆で知らされるという驚きと喜びと哀 しさが、胸に溢れないはずはない。しかし、 それにも増して意外だったのは、この手紙の 行間から、母の声が聴こえてきたという事実 である。
 何度読み返しても、いや、読み返すたびにそ の声は、私の耳の奥に聴こえてきた。それは 落ち着いていて、知的で優しく、明るい張り のある声であった。わたしはもう、母の声を よく覚えていないなどとはいえない。手紙を 読み返すたびに、それは甦ってくる。読み返 さなくとも、私はその声を忘れることなどで きない。私は、母の声を知らない子ではなか ったのである。
 

 
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