堀辰雄「風立ちぬ」

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風立ちぬ

そんな日の或る午後、私たちはお前の描きかけの繪を畫架に立てかけたまま、その白樺の木陰に寝そべって果物を齧じつてゐた。砂のやうな雲が空をさらさらと流れてゐた。そのとき不意に、何處からともなく風が立つた。私達の頭の上では、木の葉の間からちらつと覗いてゐる藍色が伸びたり縮んだりした。それと殆ど同時に、草むらの中に何かがばつたりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きつぱなしにしてあつた繪が、畫架と共に、倒れた音らしかつた。すぐに立ち上がつて行かうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失ふまいとするかのやうに無理に引き留めて、私のそばから離さないでゐた。お前は私のするがままにさせてゐた

風立ちぬ いざ生きめやも

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