中勘助「小品四つ」〜「秋草」 |
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秋草 これはもうひと昔もまへの秋のひと夜の思ひ出である。さっさっと風がたつて星が燈し火のやうに瞬く夜であつた。身も世もないほど力を落して帰らうとするのを美しい人が呼びとめて 「花をきってさしあげませう」 といひながら花鉄と手燭をもつておりてきた。そして泳ぐやうな手つきで繁りあつた秋草をかきわけ、しろじろとみえる頚筋や手くびのあたりに蝗みたいに飛びつく夜露、またほかげにきろきろと光る蜘妹の巣をよけて右に左に身を靡かせつつひと足ぬきに植込みのなかへはひつてゆくのを、かはつてもった手燭をさしだして足もとを照しながらかたみに繁みのなかへ溶けてゆく白い踵の跡をふんでゆけば、虫の音ははたと鳴きやみ、草の茎ははねかへつてきてちかと人を打つ。咲きみだれた秋草の波になかば沈んだ丈高い姿ははるかな星の光とほのめくともし火の影に照されて龍女のごとくにみえる。をりをり空から風が吹きおちて火をけさうとすると 「あら」 と大きな目がふりかへつてひとしきり鋏の音がやむ。驚かされた蛾は手燭のまはりをきりきりとまはつて長い眉をひそめさせる。そんなにして無言のままに紫苑や、虎の尾や、女郎花や、みだれさいた秋草の花から花へと歩みをうつしてゆくのを、私は胸いつぱいになつて、すべての星宿が天の東からでて西にめぐるよりも貴いことに眺めてゐた。ここにあるいくすぢの細いリボンの、白と黄と、淡紅と、ところどころに青いしみのあるのはそのをりをりにきつて束ねてもらつた草の汁である。さりながら私はこのうちのどれがその夜のものであつたかをおぼえてゐない。 |
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