山口瞳「わが町」

塚本邦雄 c ドビュッシー弦楽四重奏曲
山口瞳「わが町」

青葉が道におおいかぶさっていた。ここでは日の光も緑に見えてくる。
「せんせい。ここの家をよく見ておいてくれよ」
森本が左側の洋館を指さした。ほとんど真四角の家で、中央のポーチにも二階にも蔦が這っていた。いまにも頽れおちそうで、それでいてどこか整然としていて、人の気配はなかった。門からポーチまでの距離は三、四十メートルもあろうか。荒れ放題に荒れているけれど、雑草を刈り、芝の手入れをするならば、石もあり、池もある、なにやら英国風の庭園がそこに出現するはずだった。

〈以前、この家の男の子が、栗拾いに庭に入つた森本を空気銃で撃つた。弾はあたらなかつたが後日、その男の子は他の子を撃つて怪我をおわせ、警察沙汰になつたことがある。〉

「それはお妾さんの家だと思いますよ」
甚さんはテレビの置いてある畳敷のところに腰かけていた。客はもうわたしのほかに誰もいなくて、今日の仕事は終わったというふうに、ゆったりと煙草を吸っていた。
「お妾さん ?  まさか……」
「いや、そうなんですよ。このへんはお妾さんが多かったんですよ。それも、とびきり上等のね」
「ああそうか」

「人力車で通ってきたもんですよ」
「そこの駅から ? 」
「いや、ちがいますよ。ここには人力はなかったんです」
甚さんは、東京からするとひとつ手前の駅の名を言った。
不意に、わたしの頭のなかに、鮮烈な衝撃が走った。わたしは思わず、あっという叫び声をあげた。
「なんと、まあ、イキなもんじゃないか」
それが実感だった。手前の駅からすると、一里半にちかいだろう。一里半の夜道を人力車に乗って、愛する女に会いに来る……。
大磯とか鵠沼という土地ではない。東京の西のはずれの、赤松の林のなかの未開の地である。
妾宅に男の子が生まれる。むかしは、大きな家柄では、そういうことも、自然だった。性格の激しい子供だった。事件があって、子供の性格が少し変わった。偏屈になっていった。
母が死に、使用人が去り、男は一人で暮らしている。むかしほどではないにしても、生活に困ることはない。男は自分の才能をもてあましている。つかいかたを知らない。母のことがあるので、女に関しても偏った考えをいだいている。
いずれにしても、そういう時代も終わってしまったのだ。いいかわるいかわからないが、鮮烈なもの、激しいもの、いまふうに言えば男の勝手気儘という時代も、もう複ってこない。

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