カズオ・イシグロ「日の名残り」

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the remains of the day
男が立ち去ってから二十分ほどになります。私はここに残り、今の瞬間を、桟橋のあかりが点灯するのを待っておりました。先ほども申し上げましたが、楽しみを求めてこの桟橋に集まってきた人々が、点灯の瞬間に大きな歓声をあげました。その様子を見ておりますと、あの男の言葉の正しさが実感されます。たしかに、多くの人々にとりまして、夕方は一日でいちばん楽しめる時間なのかもしれません。では、後ろを振り向いてばかりいるのをやめ、もっと前向きになって、残された時間を最大限楽しめという男の忠告にも、同様の真実が含まれているのでしょうか。
人生が思いどうりにいかなかったからと言って、後ろばかり向き、自分を責めてみても、それは詮ないことです。あのときああすれば人生の方向が変わっていたかもしれないーーそう思うことはありましょう。しかし、それをいつまで思い悩んでいても意味のないことです。私どものような人間は、何か真に価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がいたします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうあれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう。
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