archive2012.01-12

2012.01.05「A Child is Born」
父母未生の昔も今も、自分の存在しないこれからも、星空はかはらず耀いてゐることだらう。夜空のもとでは、自分の存在がかぎりなくちいさく感じられるけれど、またおおきなものにいだかれているやうでもある。星々を鏤めた夜空は、わたしたちの死にゆくところでもあり、生まれいずるところでもあらう。

銀河鉄道の夜を読んでゐて、何か音楽を思ひうかべることはないけれど、この曲この演奏なら、ジョバンニもカンパネルラも、気にいつてくれると思ふ。

The Oscar Peterson Trio + The Singers Unlimited・「In Tune」〜「A Child is Born」

2012.01.20「私みたいなバカ」
「『辞書というものがあるのはもちろん知っていたけど、私みたいなバカが触っちゃいけないものだと思っていた。』
高峰秀子にとって、読書は生きる糧だったのだ。
『どうしてそれほど本を読むの』
あらためてそう聞いた時、
『劣等感ですね』
一言そう答えた、高峰の暗く、強い眼。
逆境を超えてなお、己がめざす自分自身に向かってひたむきに努力する、その姿はまぶしいほど美しかった。」
「まさに"食う"ように」斎藤明美  藝術新潮 2011年12月号(特集・高峰秀子)

司馬遼太郎が嘗てかう言つたさうである。
「どんな教育をすれば高峰さんのような人間ができるんだろう。」

高峰の受けた正規の教育は、生涯で小学校には二ヶ月、中学には一ヶ月。字のロクに読めない養母の家には蔵書はない、五歳から映画の子役を養母に強制され、セリフは口移しに教へられた。それでゐて博覧強記。自著は二十六冊。

「学校教育を受けていない彼女が、如何にしてそんな人間になり得たのか…。」

それは、まさに"食う"やうな読書のたまものであつた。最後に読んだ小説は「1Q84」。
高峰の感想、「私の頭が悪いせいか、よくわからなかった。」

2012.02.05「Cornflower blue eyes」
レイモンド・チャンドラーが七歳の時両親が離婚、母親は幼い彼をつれて英国へ渡った。歳月がたち、二十三歳になつた彼は、ある少女に恋をした。二十四歳でアメリカに帰った彼は二十年後、この時の恋の思い出を一編の詩にした。

この女ほど優しい女はいない
ヤグルマギクの碧い眼(Cornflower blue eyes)で
私に魔法をかけ
望み得ぬ楽園を約束する

二十五歳の時、シシーという愛称の、ヤグルマギクの碧い眼をした人妻と知りあう。七年後シシーは離婚したが、チャンドラーは母親が亡くなるまで結婚を待たなければならなかつた。結婚時チャンドラー三十六歳、シシー五十三歳。
彼はシシーが亡くなった後、こう述懐した。「彼女は三十年の間、私の心臓の鼓動だつた。」

ネアンデルタール人は我々より先にアフリカを旅立ち、ヨーロッパに定住した。彼らの白い肌、碧い眼といふ肉体的特長は、寒冷な気候、弱い太陽光線に適応した結果と想像される。後から現生人類がヨーロッパに定住するやうになつて、両者の間で、闘争、あるいは融合があつたことだらう。もともと数が少なかつたネアンデルタール人は、次第に現生人類に吸収されていつた。シシーのヤグルマギクの碧い眼は、両人類融合の証である。

2012.03.05「空っぽの容れ物」
伊丹十三の死後十五年が経ち、テレビ等で特集が組まれてゐるが、私は伊丹と親しかつた佐藤利明氏(テレビマンユニオン・プロジューサー)の証言が忘れられない。

「お父さんの話で忘れられない話があったなあ。結核で臥せっていたでしょ、いつも不機嫌だったそうです。ふつうの親のようには子供をかまえなかったみたいでね、戦争中、伊丹少年が一人で木を削って模型飛行機を作った。イギリスのデ・ハビランドの双胴の飛行機。伊丹少年は気に入って一生懸命つくったわけです。私も飛行機好きだったから、『へえ、あれ作ったんですか』って感心して聞いたんです。そうしたらね、伊丹さんがちょっとまぶしそうな表情で言うんです。『ところがね、佐藤さん。親父は何が気に入らなかったのか、こんなものが飛ぶわけないだろうって足で踏みつぶしたんだよ』って」

父は飛行機と共に、息子の心も踏みつぶしてしまつたのである。それは息子の存在の全否定に等しかつた。自分の存在を否定された事実が、伊丹の人生の出発点であり、踏みつぶされた心は、彼が何をしやうと、一生みたされることはなかつた。ここに伊丹の自殺の遠因がある。
伊丹の著書「女たちよ!」の前書きにある、「私自身は…ほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない。」という文章は、彼の本音ではないだらうか。

2012.04.05「OS X Lion の謎」
昨年七月、Mac OS X Lion のインストールをはじめて、立ちあがつた画面に目をみはつた。何とも渋い銀鼠(ぎんねず)の壁紙である。この、茶室の壁に使へさうな色を見て、ある感じをもつた。もしかしたら…、或いは日本の、…でも証拠は無い。片付かない気持ちのまま年が明け、今年になつて、出川直樹氏の文章が芸術新潮二月号に掲載された。知人の紹介で、ジョブズに、信楽の壺をみせた話である。当時、出川氏は彼のことをよく知らなかつたさうだ。今から八、九年前のことである。

「十数点見せたが中でも彼が集中して見たのは、私も特に気に入っている二つの壺であった。〈略〉『信楽で往生』という言葉があり、数ある古陶磁の中でも簡素な古信楽にまで行きつくのが奥の奥という意味だが、ジョブズ氏は既にその域に達していたのだろうか。そうとは思えないが、彼の感覚はその方向を正しく指していたようだ。その二つの壺を見ていた彼は手放す気があるか、と聞いたが、私はその気はないがこのようなものを気に入ってくれて不思議でもあり嬉しい気がすると答えた。」
出川直樹「スティーブ・ジョブズと信楽の壺」 芸術新潮 2012年2月号

ジョブズの感性は日本の古信楽に心をよせた。その延長線上に銀鼠の壁紙がある。

2012.05.05「夢をみる魚たち」
以前、ベリフェラといふ熱帯魚を飼育してゐたことがある。グッピーの近縁種で、最大十二センチにもなり、マヤの神官のやうな、黄金の衣装をまとつてゐる。このユカタン半島原産の魚を、ミラード邸の池にはなしてみたい。マヤ神殿に似たテキスタイルブロック住宅に、これほどふさはしい観賞魚はいないだらう。カリフォルニアの日の光は、この魚を美しく育ててくれることだらう。

モリエネシア・ベリフェラ「オスのわき腹に出る玉虫色のかがやきには、他のメダカにない高貴なものがあります。水草が繁茂し、日光がよく当たる水中では、玉虫色のかがやきも美しく、背ビレも長くのびます。この魚を美しくするには日光が必要です。」
和泉克雄「熱帯メダカ族百科」

一般には、セイルフィン・モーリーと呼ばれてゐるこの魚の他に、アフリカ産卵生メダカのランプ・アイもいい。おおきな、青い目が忘れられない。このメダカも、ミラード夫人の池を夢みてゐるのだらう。

ミクロパンカックス・マクロプタルムス(ランプ・アイ)「からだの色は、淡い緑色で、すきとおった感じで、目のほかには、強い印象となるものは何もありません。しいていえば、側面の下のほうに小さな点をつらねた線がありますが、この淡い青の縫い糸のような線は、夢幻的な、目のかがやきの効果をたかめています。」

2012.06.05「市中の楽園」
楽園を市中の喧噪の中に求めるなら、安藤忠雄設計「住吉の長屋」は、ひとつの有効な解答となるだらう。四囲の壁が外からの視線を遮り、風を防ぎ、騒音を和らげる。通風と採光のための中庭を設け、樹木を植えて水草と魚のための池をつくる。池の上に奥の部屋に行くための橋を架け、…と空想してゐたら、いつの間にか、フィリップ・ジョンソン設計の「タウンハウス」になつてしまつた。大阪の「住吉の長屋」から、二階のブリッジと、中庭の階段を取り去つて池をつくると、ニューヨークの「タウンハウス」になる。新発見である。兎に角この物件を私の隠れ家とする。こちらの池には、ゴッホの星月夜の色彩に似た、コイ科のミクロラスボラ・ハナビを放したい。「ビルマの竪琴」のなかで、水島上等兵が見た魚である。

2012.06.10「永遠の故郷」先月五月二十二日、吉田秀和先生が亡くなつた。
最後の著書は、永遠の故郷…「夜〈Bに〉」、「薄明〈母に〉」、「真昼〈父に〉」、「夕映〈再びBに〉」の全四巻。六月中旬に、CD版が刊行される。2012.07.05「絶望的なまでに……」
吉田秀和「CD版・永遠の故郷」が手許に届いた。吉田秀和、選、訳、著 CD五枚と訳詩集四冊、それに書き下ろしエッセイ一冊といふ構成。既刊のエッセイ集、永遠の故郷全四巻に登場する歌曲をすべて聴くことができる。帯にある文章を書き写してみる。

限りなく優しく、絶望的なまでに懐かしい歌。
歌曲とは心の歌にほかならない。
私は歌の中に心を感じ、心を見、心を聴く。 吉田秀和

百曲に近い歌曲のなかで、私は、私の懐かしい歌を、聴くことができるだらうか。

2012.08.05「唯一無二の〈海〉」
リヒテルの日記、「音楽をめぐる手帳」より

「アンナ・イワーノヴナは、ある日のこと、ドビュッシー作曲の〈海〉を耳にして感嘆の言葉を洩らす。『これは私にとって奇跡に等しい……だって海そのものなんですもの!』

最後に、ネイガウスが何よりも愛してやまなかったドビュッシーの〈海〉をかけた。わが家に来ると、たいてい何時も『〈海〉をかけておくれ』と言ったものだ。

またしても〈海〉を聴いてしまった。いつかこの曲を聴いたり、眺めたり、その息吹を腹いっぱい吸い込むのに飽き飽きするときが来るだろうか。聴くたびに、まるで初めて聴くように感ずる。謎だ、自然再現の奇跡だ、否、それ以上だ、魔法と言うべきだ!

何度この〈海〉をかけたことか(少なくとも百回は下らない)。そしてそのたびに初めて聴くような気分を味わう。これは例外中の例外と言うべき成功作だ。録音技術が演奏の霊感的部分を立派に捉えたという単純な事実そのものからして奇跡だ!これ以上に美しい演奏を収めたレコードを知らない。解釈については言うべきことはない。まさに唯一無二である。ロジエ・デゾルミエール!!」

海のやうに大きいロシア。そこに住むロシア人たちは、〈海〉が好きらしい。

2012.09.05「今年はドビュッシー生誕百五十年」
日本のクラシック音楽ファンにとつて、ドビュッシーといふ作曲家ははどういふ存在なのだらうか。昨年四月号の「音楽の友」読者アンケートによると、「好きな作曲家」では、十七位。「嫌いな作曲家」では六位。この結果は、「やはり」と思はせるし、残念でもある。参考のため各々のベストテンを記しておく。
〈好きな作曲家〉 ベートーヴェン、モーツァルト、ブラームス、チャイコフスキー、ショパン、マーラー、バッハ、ヴェルディ、ブルックナー、シューマンの順。
〈嫌いな作曲家〉 ブルックナー、マーラー、ワーグナー、武満徹、シェーンベルク、ドビュッシー、ショパン、リスト、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキーの順。
両部門で、マーラーとブルックナーが顔を出してゐるのはわかるが、ショパンが〈嫌い〉でもベストテン入り。これは以外だつた。

ドビュッシーについて、吉田秀和氏が「音楽のある場所」のなかで、こんな指摘をしてゐる。要約すると、

「あれだけの大音楽家であるにもかかわらず、ドビュッシーの曲をいれたディスクの数はそんなに多くはないように思われる。
一般の音楽好きにとって人気がもう一つなのか、それともドビュッシーという人の音楽の性格が、みだりに簡単に手をつけられないようなものをもっているのか?
世界中、ドビュッシー好きという人種には、とかく気むずかしいというか、趣味については貴族的な選り好みの厳格なところがあって、その人たちの共感や賞賛を得るのは一筋縄にはいかないということがあるような気もする。
私は『ドビュッシーの音楽こそ、もっといろんな演奏でききたいのに』という気持ちをもちながら、あまり耳にする機会がないままに過ごしている」2012.10.25「ドビュッシーを聴かないなんて…」
ドビュッシーは、「音楽は、謙遜に、人を楽しませるようにつとめるべきである」言つてゐる。また、自分の方法の原理を、「自然の中にかきこまれている音楽をよみとること」と定義してゐる。したがつて我々も、素直にドビュッシーの音楽に向きあへばいい。さうすれば、「自然の中に聞き取つた音を、人を楽しませるやうに」書いた彼の音楽を楽しめないはずがない。音楽がわかるといふことは、音楽を聴いて楽しむことだらう。
私が今現在、ドビュッシーの作品でよく聴くのはピアノ曲の「映像」、わけても第一集の「水に映る影」だ。それから、ヴァイオリンソナタ、チェロソナタなど。

苦手な作曲家は、ショスタコーヴィチ、ブルックナー。マーラーにはすまないけれど、何もかも放り込んだ、闇鍋のやうな彼の交響曲は、好きな楽章だけを聴いてゐる。かういふサンプラー盤のやうな聴き方は反則なのだらう。

2012.12.03「バルトークの謎」
バルトーク「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」の第三楽章は、木琴の連打で始まる。「さあ、これから第三楽章のはじまりです」といふやうに。その音は、我が国の芝居の幕開けに鳴らされる拍子木によく似てゐる。初めてこの音楽を聴いたときに私はそれを、拍子木の音と思つて疑はなかつた。
彫刻家ロダンや、森鴎外の「花子」のモデルになつた花子といふ女優が、千九百〇二年から一九一八年にかけて、ヨーロッパ各地で芝居を興行した事実がある。その時、バルトークが日本の芝居を観た可能性はある。日本人の芝居なら拍子木は付きものだらう。その響きが、彼がこの作品を作曲するときに影響を与へたことは考へられる。だが、この事に言及した文章にお目にかかつたことがない。

第三楽章は、夜の音楽である。

「バルトークの曲をきいていると、時々私は、この人は、単に私たちの耳に聞こえない物音もききわける鋭敏な耳をもっていただけでなく、私たちが目で見ることのできないものの姿も、早くから見る力をもっていたのではないかという気がしてくることがある」
吉田秀和「私の好きな曲」〜「バルトーク『夜の音楽』」

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