archive 2023

2023.09.25「noblesse oblige」
福田和也「乃木希典」
「立派な人がいない、風格のある人がいない。長い間、そういう印象を、私はもってきた。今も、もっている。その思いは募るばかりだ。
立派な人が、世間から払底してしまったのだ。しかし、現実にはいなくても、過去の人を想起することはできる。
かつて乃木希典は、多くの日本人にとってそういう存在だった。いまや、乃木は、そのような存在ではない。たしかに乃木は、松蔭や西郷に比べれば格が落ちる。
吉田松陰の世代に許されていた純粋さは、乃木希典の世代には許されなかった。
その人生の半ばで、乃木は、自らを徹底的に純化すること、純化してみせることを決意した。
誠実であること、清廉であること、質素であること、勇敢であること。

乃木が挑んだ道は、いわゆる武士道よりも、格段に厳しいものだった。武士は、みずからに戦うことを課している。武士として戦うものは、みな志願した戦闘者だ。
近代国家は国民に対して、戦うことまで要求する。だとすれば、徴兵軍の統率者は、武将よりも、一段も二段も高い、何かを持っていなければならないことになるのではないか。
明治国家は、国民にたいして、その要求に報いるだけのものを与えることができてはいなかった。
それでも、国民が耐え、進んで協力をしてのは、そうしなければ、つまりは近代国家としての体裁を整えなければ、日本が滅んでしまうと思っていたからで、だからこそ歯を食いしばって協力したのだ。
一方、なぜ現在の日本国民は、これほど国家に依存し、保護を受けているのに国に対する報恩の念が薄いのか。
それにしても、国家に何もしてもらえなかった明治の日本人が進んで国に身を捧げ、国から多くの保護を受けている…教育、医療、年金など…現在の国民がその意志を持たないという捩れは、一考の余地があるように思われる」

明治維新以後、江戸時代までの「noblesse oblige」を重んじる武士は、士族といふ階級になつた。ひととなりに於いては共通するものはないが、士族といふ一筋の糸で、乃木と小泉新吉はむすばれてゐる。現在の日本は、この二人を含め庶民に至るまでの、数多くの犠牲の上に築かれたことを忘れてはならない。

2023.08.30「運命の力」
「ある種の人間は、自分がこの世に生まれてきたことを償うだけで生涯を費やしてしまうものである」
ロス・マクドナルド「さむけ」

映画〈四月物語〉をとりあげた時、思ひがけない展開で、伊丹に辿りついた私は、久しぶりに彼の最初の著書「ヨーロッパ退屈日記」を拾い読みした。六十年前に書いた本だから、大英帝国といふ活字が所々見受けられ、今となつては少しばかり古臭い。
千九百九十七年六月三十日、英国は香港をシナに返還。此れを以て大英帝国は消滅した。同年十二月二十日に伊丹は自死。
嘗て、こんなことを伊丹十三が書いてゐた。うろ覚えだが以下に記す。

「スポーツカーにのり、風に向つてオペラ〈運命の力〉を力一杯歌う」

運命の力に真正面に立ち向かふ決意の表明だつたのかもしれない。どの随筆、エッセイ集に載つてゐたものか、或いは雑誌のコラムかはつきりしないが、これを読んでイタリアオペラに興味のない私が、マリア・カラス主演〈運命の力〉のLPを買つて聴いたことがある。このオペラの初演は、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で、登場人物は全て死ぬ。主人公のアルバロは世を呪ひ、崖から身を投げて叫ぶ。
「人類は皆滅びるがいい」
原典のままなら、伊丹の死の状況と平仄が合うが、改訂版ではあまりの陰惨さに、神父の下、アルバロは恋人の死を見届けてエンディング。

私は伊丹の著書を五冊もつてゐる。どれも随筆、エッセイ集である。今読み返しても、此れだけの文才があり、俳優として内外の映画に出演し、映画監督としても良作をものし、充実した人生をおくつてゐるかに傍目にはみえたが、最後まで、彼は自己肯定感のうすいひとだつた。それは父親から自分の存在を認められなかつた事に起因する。
以下、佐藤利明氏(プロジューサー)の文章を引用する。

「お父さんの話で忘れられない話があったなあ。結核で臥せっていたでしょ、いつも不機嫌だったそうです。ふつうの親のようには子供をかまえなかったみたいでね、戦争中、伊丹少年が一人で木を削って模型飛行機を作った。イギリスのデ・ハビランドの双胴の飛行機。伊丹少年は気に入って一生懸命つくったわけです。私も飛行機好きだったから、『へえ、あれ作ったんですか』って感心して聞いたんです。そうしたらね、伊丹さんがちょっとまぶしそうな表情で言うんです。『ところがね、佐藤さん。親父は何が気に入らなかったのか、こんなものが飛ぶわけないだろうって足で踏みつぶしたんだよ』って」

彼は自分で自分に鞭を入れて走り続けるしかなかつた。それが或る時、ふと立ち止まる。自分の中で、何かぷつんと切れる。走り続けてきたけれど、ここいら辺かな、‥‥もういいだらう。

「伊丹のいいところは、人間としての無類の優しさにある。そうして、その優しさから生ずるところの『男らしさ』にある。いつだって、どんなことだって彼は逃げたことがない。私は、彼と一緒にいると『男性的で繊細で真面な人間がこの世に生きられるか』という痛ましい実験を見る思いがする」
山口瞳・「ヨーロッパ退屈日記」裏表紙の推薦文

2023.06.11「宮澤賢治といふブラックホール」
「賢治はかってこう書いた。

詩は裸身にて理論の至り得ぬ堺を探り来る
そのこと決死のわざなり

賢治は、その〈決死のわざ〉によって、天の見なれない部分に目をこらし、想いをこらした。そしてまさしく理論にさきがけて、銀河の中心に巨大な天の穴があると直感したのである。それは半世紀を経た一九八五年、カリフォルニア大学のノーベル賞物理学者チャールズ・ダウン博士が、銀河の中心に内径十光年のガスの渦巻きリングがあり、内側のガスが外側よりずっと早く回転していることを発見して、渦巻きリングの中に巨大な、太陽の四百倍の質量をもったものがある、と発表したものの予見であった。重力によってこれほどの質量が押しこまれているものは、ブラックホール以外には考えられない。

〈あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ〉カムパネルラが天の川のひととこを指しました。ジョバンニはそつちを見てまるでぎくつとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまつくらな孔がどぼんとあいてゐるのです〉

〈あそこの野原〉は、ブラックホールの彼方にみえたのだろうか?もしそうなら賢治は、〈ほんたうの天上〉も、カムパネルラの母親が行った〈彼岸〉も、ブラックホールの彼方、そらの孔の向こうにあると考えていたことになる…」
吉田直哉「夢うつつの図鑑〜銀河鐵道のほとりの話」

賢治といふ巨大な存在にとつて、保阪嘉内は数多の業の花びらのひとひらに過ぎない。賢治と保坂との交友を強調したNHKの番組は、LGBTの風潮に悪乗りしたのではないかと疑はれてもしかたあるまい。それはそれとして、この番組で、「業」といふ言葉を中心にして、父政次郎と賢治が固く結ばれてゐたことを知つたのは収穫であつた。

2023.05.20「国の円寂する時」
西尾幹二「三島由紀夫の死と私」
「ドイツ人、フランス人、イギリス人は、それぞれの国の国民であることを超えたヨーロッパ人という意識がある。それはヨーロッパという外枠があるからこそ自国民を超えることができる。しかし日本人にそれはない。日本人が日本人を超えることができるような枠が、日本の外にあるだろうか」

ヨーロッパといふやうな便利な外枠は日本にはない。従つて今の自分達をを超へる枠は、自国の歴史に求める他ない。それは一国家一文明である日本の伝統、文化であらう。アジアとよばれてゐる地域で、ノーベル賞受賞者数を始め、ソフトバワーは他の国に抜きんでゐる。このことは日本の歴史、文化、伝統の賜である。しかし、自分の権利だけ主張し、自らに義務を課さない、大衆化した今の日本人には、それさへ気づかないやうである。

折口信夫「歌の円寂する時」
「歌を望みない方へ誘ふ力は、私だけの考へでも、尠くとも三つはある。一つは、歌の享けた命数に限りがあること。二つには、歌よみが、人間の出来て居な過ぎる点。三つには、真の意味の批評の一向出て来ないことである」

上記した折口先生の文章を援用すると、「この国の円寂する時」は、一つは、国の享けた命数に限りがあること、二つには、国民が大衆化したこと、三つには、正確、正当な歴史教育を疎かにしてゐることである。まともな自国の歴史を知らずして、どうして自国に誇りは持てるだらうか。

2023.04.16「〈四月物語〉余聞」
ジョン・レノン殺しのマーク・チャップマンが愛読した「ライ麦畑でつかまえて」といふ本を知つたのは、伊丹十三著「女たちよ!」のなかだつた。昭和四十三年の出版だから、ずいぶん昔のことになる。
巻末に「配偶者を求めております」とあつて、伊丹十三が自分の配偶者たるに相応しい女性に対する条件のひとつに、「サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が一番好きな小説で」といふ項目があつた。
どんな小説だらうと好奇心で、野崎孝訳・白水社版「ライ麦畑でつかまえて」を読んだが、あまり気に入らなかつたらしい。何故つて一度読んだきりだから。今でも本棚の隅にある。この文章を書くために、取り出して開いてみると「ライ麦畑」宣伝文が挟んである。

「現代アメリカのもつやりきれない状況を、一人の少年の無邪気で辛辣な眼を通して捉え、全米の若い世代の共感を呼んだベストセラー」とある。
サリンジャーがこの小説を書きあげたのは1950年。初版は翌年1951年である。その頃すでに「アメリカはやりきれない状況」にあつたのだらうか。人間はいつもその時その時を、やりきれない状況だと思つているのかもしれないが、信じられない話である。
今全世界ではポリコレ棒が振り回され、LGBTつて…何これ。ただ薄気味悪いだけ。アメリカの50年代はモダンジャズの全盛期であり、アメリカが世界で一番豊かな国だつた。

2023.03.13「It's bliss」
先月、バート・バカラックが亡くなつた。九四歳だつたといふ。美しいメロディ、個性的なリズム。一度聴いたら忘れられない、数多くの曲をありがとう。亡くなるのなら序に、私のなかのアルフィーも連れていつてもらひたかつた。そう彼に言ふと、
「何ていふことを。アルフィーは君自身じゃないかね。こちらに来るのなら独りできたまえ」
と言はれてしまつた。一言もない。そうだ、私があちらへ行くときには、バカラックの「プロミセス・プロミセス」をバックにするといいかも。何もかも振り捨て、全部チャラにして、そしたら恩寵につつまれて彼岸にいけるだらう。軽快なリズム、上昇する音階、妙なる喇叭の響きにのつて。

到着したら、背景の音楽が変る。フレディの「冬の物語」だ。

わたしは夢をみているのだろうか
これは夢なのだろうか
至上の愛
これは夢なのだろうか
至高の静寂と平和
静けさと至福
魔法のような空気につつまれて
この上なく荘厳な光景
息をのむような光景
この世界の夢は
あなたの手のとどくところにある
何もかも美しい
画に描いたような綺麗な空
山々は高く聳え
この世界が回って、回って、また回って
信じられない
恍惚のなか
これは夢なのだろうか
わたしは夢をみているのだろうか
ああ、至福の時よ

フレディの「冬の物語」は、彼が天国でみた光景を歌つた曲なのだ。だから聴いてゐると、心が穏やかになり、目頭が熱くなるのだ。



home

archive