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2021.01.08「嵯峨の昆布」
安東次男「悲しびそふる」といふ〈おくのほそ道〉についての文章を読んで、勉強になつた。
芭蕉と同じ道を辿つたことはないが、随分と昔、私が二十代前半だつたとき、嵯峨野にあるいくつかの寺社を巡り、最後は落柿舎を訪ねたことがあつた。その帰り路、小商いの店の前を通りがかると声をかけられた。記憶をたどり、その折の京都弁を再現すると、
〈おこぶの佃煮、どうどすか。お茶漬にしたら、おいしおっせ〉。
声の主は、五十歳前後の色白で、小太りの品のいい婦人だつた。折角のお勧めでも、こちらは生意気ざかりの年齢で、お茶漬けなどに興味のあるはずがない。それでも二袋ほど贖つたのは、柔らかな京都弁にのせられたのかもしれない。帰宅して、試みに酒のお供にしてみると、美味い。酒のあと、お茶漬けにするとこれも美味い。美味い美味いで、数日でなくなつてしまつた。
その後、名店老舗の昆布の佃煮を試してみたが、〈おいしおっせ〉の昆布の佃煮に及ぶものはなかつた。。記憶が公平な評価を妨げてゐるのかもしれない。昆布の佃煮は嵯峨野にかぎる。
以下に、「悲しびそふる」の一部を引用したい。

「たとへばつぎの有名な一節。『俤松島にかよひて又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり』、一見諳んずるに容易な一美文にすぎないようだが、これが太平洋岸からいくつかの難所を越えて日本海岸へ出た人間(その間三十四日)、しかも松島では快晴に恵まれ象潟では雨の暮色をながめた俳諧師の文であると気がついてみれば、松島と象潟を単なる地図上の一点として並列的にとらえることは許されなくなってくる。これは経過してきた時間や道程、あるいは天候とか地勢上の差にもかかわることだが、それにとどまらない。かりにもし芭蕉が同じ条件のもとに逆に歩いたとして、はたして、おもかげ象潟にかよいて又異なり、象潟はうらむがごとく、松島は笑うがごとし、という文章が成り立ち得たかどうか。いわんや、悲しみ減じて寂しさだけがのこった、というわけにはゆかなかったであろう。このあたりが、『歌仙は三十六歩也。一歩も後ろに帰る心なし。行くにしたがひ心の改まるは、ただ先へゆく心なれば也』といった俳諧師の面目躍如たるところであって、『寂しさに悲しみをくはえて』も、日ごろ歌仙の無常迅速を知りつくした者ならではの言である。歌人も連歌師も、こうはゆかなかった。
それを知ってか知らずか、芭蕉は後日(元禄六年)許六を送る詞の中で、もう一度このことばを繰り返している。『ただ釈阿、西行のことばのみ、かりそめに云散らされしあだなる戯れごとも、あはれなる所多し。後鳥羽上皇の書かせ玉ひしものにも、これらは歌に実ありしかも悲しびを添ふるとのたまひ侍しとかや。さればこの御言葉を力として、其の細き一筋をたどり失ふる事なかれ。猶、古人の跡を求めたるところを求めよと、南山大師の筆の道にも見えたり。風雅も又これに同じと云て、灯をかかげて、柴門の外に送りて別るるのみ』。『御口伝』には、悲しみを添えるというようなことばは、見当たらない。芭蕉一流の記憶違いあるいは拡張解釈であるが、語のいきおいともいうべきこのつぶやきには、、かれの歩いてきたすべての旅、経てきた一切の歌仙が凝縮されて映っているようである」

2021.02.09「往き征きて帰らぬ」
ゴッホ「麦畑の絵」をみると、芭蕉の「枯野」の句を思ひだし、「枯野」をよむと、「麦畑」を連想する、こんな悪循環を断ち切るべく、安東次男先生のお力を借りることにした。

「『枯野』の句についてのその他の解釈は、芭蕉の旅をはじめから自明のこととして扱っていて、『旅に病んで』の『旅』がどんな旅であったかというようなことは、殆ど意にも介していないらしい」
「芭蕉の『枯野』の吟は辞世ではない。妄執である。死に臨んで、それに相応しい同行を言いたかったまでだ」
「みほとけの慈悲を願うこともなく死んだ正真の俳諧師が、あの世へ行ったら同行がいなくてもよいと考えるはずがない。芭蕉は、『枯野』の句をたずさえてあの世で木曽殿とさしで俳諧をやってみたい、そうすれば、不出来のまま辞世となってしまったような句も救われる、と考えたのではないか。本当の辞世は、『枯野』の句ではなく、基角が伝える『木曽殿』云々のさりげないことばである。門人たちも、後世も、うっかりとそれを見落としてしまっているが、これは一所不在を思い決めた俳諧師としては、何ともうまい、しゃれたしめくくりである。往き征きて帰らぬ俳諧未完の情は、いかんなくそこに現れ出る」

ここまで読めば、私にも芭蕉の「旅」とは、俳諧の連歌といふ旅だつたことがわかる。芭蕉は俳句の宗匠ではなく俳諧師である。連歌の伝統が殆ど死に絶へ、〈うたげ〉は終り、〈孤心〉だけがのこつた現代では、私などは余程勉強しないと芭蕉の句の理解は難しい。

では、ゴッホの麦畑は辞世だらうか。さうではあるまい。ゴッホも往き征きて帰らず、麦畑の絵を遺した。これも妄執である。妄執だから、小林秀雄がみても、「色は昨日描き上げたように生ま生ましく」、「この色の生ま生ましさは耐え難いものであった」といふことになる。
そこには、美しくもなく愉快でもない抗し難い美があった。

2021.03.10「指先で感じ、指先で考へる」
ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタを、オーディオ装置で鳴らすとする。その際、スピーカーのこの部分がヴァイオリンの音で、こちらの部分でピアノを鳴らす…そんな訳はない。
スピーカーから出てゐる二つの楽器の合成された音を、私たちの脳が何らかの処理をして、ピアノとヴァイオリンの音として聞き取るのだらう。私たちの脳は凄い。これがピアニストとなるともっと凄い。

「古屋晋一〈ピアニストの脳を科学する〉によると、音楽家の脳には、音と指の動きをつなぐ以外に、別の感覚を結びつけるしくみも備わっている。たとえば、他のピアニストが演奏する映像を音を消して見せても、脳内では音を聴くための神経細胞が活動しはじめる。つまり、目から得た情報を音に変換する回路があるという。
音楽家の脳はまた、感情の伝達に敏感なので、他人の話し声に表れる感情の変化を聞き取る能力に優れているという」 青柳いづみこ

ピアニストの青柳いづみこさんは多くの著書があり、「指先」といふ単語が入つてゐる本だけでも二冊ある。「ピアニストは指先で考える」と「指先から感じるドビュッシー」である。ピアニストの指については、前々から感じることがあつたのだらう。その人の書評だから説得力がある。
ピアニストは指先で考へたり感じたりする。従つて、釣れたとき、魚が命を懸けて暴れる魚釣は、苦手な人が多いのではないか。

「私たちは船で出かけました。そして、私の竿にまっさきに魚がかかったんです。小さなパーチが糸の先でぴちぴちはねながら水から上がってくるのを見たとき、突然、自分が、今見ているその魚になったような気がしてきた。なにか激しい感情で心がいっぱいになって、その魚を水に戻してやろうとしたんです」グレン・グールド

グールドの心は、魚の苦悶の動きで激しく乱された。それだけでなく、指先で感じた振動が音に変換され、脳内に凄まじい音響で鳴り渡つたのだらう。

2021.04.25「夢の夢」
真あはれとおもひなば ひと夜は夢にきてもみよ なべてすげなき世のおきて 夢だに不義といふやらん 沙羅のみづ枝に花さけば 野べのけむりも一すぢに たちての後は夢の夢

〈子供の情景〉を、シューマンの最も優れたピアノ曲として推す人は少なくない。単純な形式のごく短い小品十三曲からなるこの小曲集の、どこがそんなによいのだろうか。一ついえることは、その七番目の曲〈トロイメライ〉が、原語音標のままで、すぐれてよい有名な楽曲すなわち〈名曲〉の仲間入りをしていることだ。訳せば〈夢〉だが、不思議なことに、この曲に限って、それでは通りが悪い。トロイメライというシラブルの響きが、何とも言えず、人びとを夢見心地にするのかもしれない。 諸井誠

「この曲集はまさに夢の世界です。シューマンの作品中では、技術的にいちばん易しい作品。同時に、精神的な意味で難しい作品でもあります。〈子供の情景〉とありますが、大人のためか、子供のためか微妙なところです。これは大人の眼差しから描いた子供の世界だと思います。
〈トロイメライ〉は、十三曲の真ん中、構造の上で一番大事なところに置かれています。曲集全体の調性も、ずっとシャープ系で来ていたのが、初めてフラット系になる。一つのクライマックスをつくっていると思います。弱音主体でゆったりした曲ですから、独特の難しさがあります。
この曲を弾くときには、特別扱いにしないようにという意識が自分の中にあります。演奏会では、聴衆も待っているわけです。〈子供の情景〉といえば〈トロイメライ〉ですから。会場の空気が変るんです。でも、歌い上げるわけにはいかない。ここで全てを出してしまったら、…」
イリーナ・メジューエワ

2021.06.30「静かなる細き声ー話し合い」
山本七平先生は一九九一年に亡くなつて、今年で没後三十年になる。先生を偲び、著書の一文を要約し、ここに掲載する。

「『話し合いの恐怖』という一文を書いたことがある。だがこの文章を多くの人は単なる皮肉としか受け取ってくれなかった。それくらい日本では『話し合い』が絶対なのである。
だが、本当に『人間と人間との話し合い』は絶対なのであろうか。もしそれが正しいなら。『神』は存在しなくてよいはずである。『話し合い絶対』という世界は『神なき世界』であり、それが一体どうなってしまうのか、私はその恐怖を記したのだが、人は、面白い皮肉として笑っていても、少しも恐怖してくれなかった。

私が戦後に、さまざまな徳川時代の文書を読んでいて、一種のショックを受けたものに、『南蛮誓詞』がある。多くの人は忘れているが、徳川時代とは一貫して反キリシタン時代で、この伝統はさまざまに日本に作用し、明治的天皇制の崩壊後に逆に強く出てきているのである。そしてこの『話し合い絶対』の実体が強く現れているのが『南蛮誓詞』である。
この誓詞は『転びキリシタン』が、確実にころんだことを誓った文書で、次のようになっている。
『上ニハ、天公でうす(天主)さんたまりあ(聖母)をはじめたてまつり、もろもろのあんじょ(天使)の蒙御罰、いんへろ野(地獄)と云獄所ニ、諸天狗之手に渡り、永永五寒三熱のくるしみを請、現世にては、追付らさる(伝染病)になり、人ニ白癩黒痢とよばるべき者也、乃ち、おそろしきしゅらんと(誓詞)如件』

この誓いを要約すれば、『私は今日より神を信じませんと神に誓います。この誓いを破ったならば地獄に落ちてもかまいません』ということになる。こうなると、神を信ずれば地獄に落ち、神を信じなければ天国に行くことになってしまう。
これがつまり『話し合い絶対』の世界なのである。『転ぶ』のは奉行とキリシタンとの話し合いの結果であり、この結果が『絶対』であるがゆえに、その『絶対』を保証する保証人として『神』をひき合いにだしているにすぎないのである。
従ってそれは、天地神明でも、仏でも、デウスでも、何であれ自分が『絶対』とするものを引き合いに出してよいわけだから、以上のようになって不思議ではない。この場合絶対なのは『話し合い』であって『神』ではなく、神は『話し合い絶対』を保証する存在にすぎないことを理解すれば、この『南蛮誓詞』は少しも矛盾ではないのである。

ではこの世界と聖書の世界はどこが違うのであろうか。聖書の世界は、神と人との契約が絶対であり、人と人との話し合いは相対にすぎない。確かに、人と人とは話し合ってよいし、話し合うべきであろう。だがそれはあくまでも相対的なものであり、神との契約と侵さざる限り許されているにすぎない。
人間がなすべきこと、なすべからざることは神との契約で定められており、人と人との話し合いできめることではない。神との契約が絶対で、人との話し合いが相対の世界は、人と人との話し合いが絶対で、神との関係は相対にすぎない世界とは同じではない」

2021.08.16「山本先生没後三十年」
平成二年十一月、膵臓癌の手術。平成三年二月、退院。八月二八日四十度の高熱。九月二八日、ガン再発の診断。

「再手術しようとしても、それに耐えうる体力が山本には残っていなかった。家で療養したいとの、山本の希望を入れて、再入院はしなかった。寝たきりの時間が日に日に長くなったが、山本は最後までトイレは自分で行こうとした。寝室からトイレまでわずか数メートルの距離を、小一時間もかけて少しずつ進むのである。たどり着いたトイレの前で、力尽きて倒れこむこともあった。れい子は車椅子を使わせようとしたが、山本は断固として拒否した。
『ジャングルで過酷な状況にあるとき、自分はもうダメだと思ったら死ぬ。自分が生き残れたのは、最後まで諦めなかったからだ』
しかし足が弱って、それもできなくなった。れい子はせめて外へ出してやりたいと思い、十二月七日、イスラエル旅行で愛用した帽子をかぶせ、車椅子に乗せて玄関から廊下へ運んだ。山本が外の世界を見たのはこれが最後となった」
稲垣武「怒りを抑えし者」

十二月十日午前八時頃、自宅にて死去。享年六九歳。先生の御遺志で、遺体は病理解剖に付された。
自室からトイレまで、数メートルの距離を小一時間。信じられない程の意志の力。私のやうな異教徒には、先生のその姿が、キリストのゴルゴダの丘への道行きに重なる。
七平先生に「十字架への道」といふ本がある。そのなかに、わたしたちが知つてゐるつもりで理解してゐない磔刑について、詳しい記述がある。

「では一体、十字架刑とはどのような刑であったのか。その実態は長い間わからなかった。というのはキケロが『最も恐るべき、最も屈辱的な責苦、最高の奴隷の刑罰』と記し、シュタウファが『十字架刑は古代の裁判の最も凶悪な発明であり、人間が人間の悪魔的な所業によって被る最も苦痛の激しい拷問である』と評したこの刑が廃されてから長い歳月が経ったからである。ところが、悪魔的な二十世紀はこれを実験してみた。それはナチによってダッハウの強制収容所でユダヤ人に対して実験的に行われたのである。
ー略ー
「いわば非常に徐々に首をしめ、窒息の直前に止め、また徐々に首を絞めることを、本人に自動的にやらして死に至らせる処刑方法だが、古代のそれはナチの実験よりさらに残酷であった。
というのは手首(手のひらではない)は釘で打ち付けられているから、腕を曲げて身体を持ち上げようとすれば恐ろしく苦痛であり、足で持ち上げようとすれば、これまた釘で打ち付けられている。さらに股のところに「角」といわれる木が出ているから、力尽きてぐったりと下がって急速に窒息しそうになると、この角が体を支えてまた息をふきかえす。これを何時間もなるべく長く続けさせて、死の直前に何回も到らせる。そして最後に脛を折られると、力尽きた体は支えを失ってだらりと下がり完全に窒息死する」

申請から略一年、私も献体の手続を済ましてゐる。

2021.09.15「闇からの聲」
先月八月二十七日、NHKドキュメンタリー、マイルス・デイヴィス「巨匠たちの青の時代 帝王への扉を開けたサウンド」が放送された。
近頃では、マイルス・デイビスを聴くことは稀だが、放映が刺激になり、マイルスと作家のクインシー・トゥループの共著、「マイルス・デイビス自伝」を手にいれた。目次がない厚さが3センチ5ミリもある重い本で、上下二段組み、最近の文庫本より活字が小さく、読み難いのを言ひ訳にして、あちこち拾い読みしてゐる。
巻末の四百九十五〜四百九十六ページより。

「スピリチュアルであることと霊の存在は信じている。常にずっと信じていた。おやじもおふくろもオレを訪ねてくれると信じている。死んでしまった知り合いのミュージシャンもだ。
オレはよく、煙とか雲とか、そんな類いのものが見えそうな場所で、彼らに思いを馳せる。そうするとオレの心が、彼らの姿を映し出すんだ。最近は朝起きて、おふくろかおやじか、トレーンかギルかフィリーか、とにかく誰かに会いたいときに、そうする。自分に向かって『彼らに会いたい』と言うと、そのとおりになって、話ができるんだ。時には鏡のなかにおやじを見る。おやじがあの手紙を書いて死んでからは、ずっとそうだ。オレは絶対に霊は信じるが、死については考えもしない。いろいろやることがありすぎて、死について考えている時間なんかないんだ。
今のオレの、演奏し、音楽を創造したいという切迫感は、演奏し始めたころよりもすごいものだ。はるかに激しい。呪いみたいなものだ。忘れてしまった音楽を思い出そうと気が狂いそうだ。考えながらベッドに入り、考えながら起きてといった具合に、おかしくなりそうなくらいだ。もっとも頭から消えかかっていた音楽がまだ残っていることには、大いに感謝し、幸せだと感じてもいる」

「忘れてしまった音楽」とは、NHKドキュメンタリーで出てくる、子供のころ、夜の森の中できいた女の声ではなからうか。

「その女の歌声が、オレの血のなかに入りこんだ」

2021.10.12「七平先生の涙」
「平成二年九月十一日親しくしていたピアニストの中村紘子が難民のためのチャリティ・コンサートを開くという案内が来た。山本はれい子に、
『いつもご招待をいただいているんだから、こんなときはいい席の切符を買ってさしあげなくては』と言い、衰弱した体を押して池袋の芸術劇場に赴いた。
モーツアルトのピアノ協奏曲二十三番が演奏されているとき、山本は突然、すすり泣き始めた。抑えようとしても抑えようとしても、嗚咽の声は高くなっていく。れい子も思わずもらい泣きしたが、演奏の後で『どうしたの』と聞くと、山本は恥ずかしそうに、『痛かったときのことを思い出しただけ』と答えた」
稲垣武「怒りを抑えし者ー評伝・山本七平」

稲垣氏のこの本を読むまでは、先生がクラシック音楽を愛好してゐる事を知らなかつた。先生の著書には音楽のことは、全くふれられてゐない。
文中には「ピアノ協奏曲二十三番」とあるだけだが、ここは「二十三番第二楽章」に違ひない。私はこの楽章を聴く毎に、三好達治「甃のうへ」をおもはないではいない。
第二楽章冒頭、ピアノのモノローグは悲しみをさそふ。…ひとりなる わが身の影をあゆまする甃のうへ。
甃のうへには、

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ

「花の下に立って見上げると、空の青が透いて見えるような薄い脆い花弁である。日は高く、風は暖かく、地上に花の影が重なって揺れていた」
大岡昇平「花影」

第二楽章を「花影」のために。そして私が魂の世界に行つたら、「花影」のヒロイン葉子のモデル、「むうちゃん」にあつてはなしてみたい。

「死のうって思うのと、死ぬのとは、ちがうわ」

2021.11.13「ろじゃめいちん」
本の整理をしてゐて、一冊に目がとまつた。司馬遼太郎「街道をゆく巻一、湖西のみち」。目次で三輪山の件に、巫女の話があり、印象にのこつてゐる。

「山中を歩くうち、素足の老女がむこうから歩いてきた。なにやら白っぽい着物を着て、ヒモで腰のあたりをむすんでいる。かごのなかに小鍋が入っていて、鍋に豆腐が一丁入っていた。
『こんにちわ』
と会釈してくれたから、私はそれに勢いを得て話をきいてみた。お詣りですか、というと、いつもこの山に居まンねええ、と吉野の山のあたりの古雅ななまりで答えてくれた。
『参籠ですか』
『ええ、そうですねえ』
『お滝?』
『いろいろですわいなあ』
と、ゆっくり、節まわしのついた言葉でいう。これは巫女ではないかと内心驚きつつ、さらにたづねてみると、吉野の奥のうまれで、二十三年この三輪山の中で暮らしているという。
ー略ー
別れて、メイチン君にささやいた。
『やはり居るんだな』
古代や沖縄だけではなく三輪山にも居るという意味である。
『ひとが知らないだけですね』
と、メイチン君はよほど感動したらしく、目もとをすこし赤ばませていた」

メイチン君こと、ロジャ・メイチンとは、英国はケンブリッジ出身の日本語学者である。司馬とは縁あつて知り合ひ、今回の紀行に同行した。日本人になつて、日本の大学の研究室で勉強したいらしいが、手続きが難しくて悩んでゐる。
ひさしぶりにメイチン君の名前を目にして、彼の帰化はどうなつたのか興味が湧く。ネットで検索すると、結局帰化は叶わず、母国で2002年に亡くなつてゐた。享年59歳。彼の著書があるのを知り、古書で入手した。

ろじゃめいちん著「江戸時代を見た英国人」
著者名は「ロジャ・メイチン」でなく、「ろじゃめいちん」だ。これでは誰のことか分かるまい。何とも頑固なことである。

2021.12.12「花二つ」
「袖振り合うも他生の縁、…ということばがございますね。長く生きておりますと、思いもかけないご縁にふっと出会うというようなこともありまして、ある時鎌倉へ、あじさいを見に行きましたの。紫陽花の花というのは色が変りますでしょう。変わるということに、その頃、興味を持っていたものですから…。お寺への道は行列のような大変な人出でした。私は往く道のほうにいる。向こうからは帰ってくる方がいる。ふっとその列の中に、あっ、あの方というふうにおひとり別に見えた年配の奥さまがあったんです。特別派手派手しい方ではないのに、そこだけがパッとこう光ったように思ったんです。そうしたら、あちらさんがにこっと会釈なさった。ドッキリして、「どこかでお目にかかりましたかしら?」って、いったのがご縁でね。もう何年になりますかしら。その方のお付合いぶりがまた、実に淡々としているんです。手紙を下すっても季節の挨拶とあと数行、一枚をこえない短い文章なの。けれどもいいたいことがスカッと出ている。普通、女の手紙って長いでしょ。それが短くて清潔でいい手紙なんです。
ー略ー
路上ではじめてお目にかかったとき、和服の襟の打ち合せのあたり、胸元のたっぷりした、豊かな人だなという感じが、今も印象に残っています。ゆきかいは浅いんですけれども、もう何年にもなるんです。ごたごたしたところが一つもない静かなお付合いです」

幸田文「幸田文 対話」

花二つあぢさゐ青きみ寺かな

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