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2017.01.11「グリーン・イン・ブルー」
谷崎潤一郎「陰翳礼賛」を読むと思い出すことがある。
「日本の厠は実に精神がやすまるやうに出來てゐる。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂ひや苔の匂ひして來るやうな植込みの陰に設けてあり、廊下を伝はつて行くのであるが…」とあり、「厠の話」には、「小便所は、朝顔に杉の葉を詰めたのが最も雅味があるけれども…」といふ件もある。

私の実家の母屋には渡り廊下があり、その突き当たりが土蔵の入り口、その左に八畳の和室があつた。母屋と土蔵の中間に、外の庭に半畳ほどつきだして、小便所が造られてゐる。谷崎のいふ朝顔形ではなく、青磁釉の床置き型で、青青とした杉の葉がたくさん敷きつめられてゐた。便所の扉はないが臭ひもないし、家人以外は通らないので差し支へない。あまり例のない小便所の設置例だらう。八畳の和室は、オーディオ装置を設備して、真夜中でも交響曲やオペラを聴けるやうにしやうと計画してゐたが、その願いは実現しなかつた。右隣の家が出火して、土蔵は残つたが、和室は全焼し、廊下は半分ほど焼け落ちて、谷崎の云ふ、「或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻りさえ耳につくような静かさ」を備えた例の物件も焼失してしまつた。母屋が被害に遭なかつたことが幸いである。深夜、あの八畳間で聴くラヴェルやドビュッシーは、どんな響きだつたらうと、ときどき夢想する。

2017.01.28「ブルー・イン・グリーン」
離れの八畳間に寝たことは一度もない。実家では何時も、私は母屋の二階ですごした。其処からは遠くの山と、川沿いの道が見え、潺の音が心地よい。潺は夢想を誘い、眠りに誘う。子供時代のある夜、床につくまへに、普段は近づかない、渡り廊下の件の場所で用を足した。母屋の手洗いが、ふさがつてゐたからである。戻らうとして何気なく後を振り返り、離れ座敷をのぞいて立ちすくんだ。眩い光に満ちてゐる。子細に見ると、満月の光が裏の崖に反射して、窓硝子の内側の障子が蒼白く発光してゐた。障子の桟が、畳の上に幾何学模様を描いてゐる。初秋の頃で、外の叢の蟲たちが、地面の底から、今際の時とばかりに鳴いてゐる。

あの時の蟲の音と測りあへる音楽は、マイルス・デイビスの〈Blue in Gren〉以外に無い。
前奏のあと、マイルス・デイビスの最初の一音で、蟲たちは、ハタと鳴きやむだらうか。何事もなく、鳴きつづけるだらうか。一瞬鳴きやんで、唱和するだらうか。失はれた座敷を偲んで、私の妄想はとどまることはない。

2017.04.05「火刑台上の日本」
劇作家、詩人、外交官のポール・クローデルは、作曲家アルチュール・オネゲルと共に、劇的オラトリオ〈火刑台上のジャンヌ・ダルク〉を完成させ、千九百三十九年五月、オレルアンで初演、翌六月はパリにて上演した。
それから四年後の千九百四十三年、昭和十八年の秋、嘗て駐日フランス大使を務めたクローデルはパリの或る夜会に招かれ、次のやうにスピーチをした。

「私がどうしても滅びてほしくない民族があります。それは日本人です。あれほど古い文明をそのまま今に伝へてゐる民族は他にありません。日本の近代における発展、それは大変目覚しいけれども、私にとっては不思議ではありません。日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治になつて欧米の文化を輸入しても発展したのです。どの民族もこれだけの急な発展をするだけの資格はありません。しかし、日本にはその資格があるのです。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格があるのです」

そして、最後にかう付け加へた。
〈彼らは貧しい。しかし、高貴である〉

ジャンヌは鎖を断ち切つた。日本人は未だに繋がれ、火刑台上にある。私達は自らの手でこの鎖を断ち切らねばならない。

2017.05.01「花の街」
こどものころ、露地をあるくといつもこの歌がきこえてきました。
七色の谷を越えて
流れて行く 風のリボン
輪になって 輪になって
かけていったよ
春よ春よと
かけていったよ
生垣つづきの小路が交叉しゐるところに小さな家があり、庭にはアスパラガスが植ゑられて、窓辺で男の子がトマトの皿を前にパンをたべてゐました。
そこを通りすぎると香ばしい揚げ油のかをりがして…。

……右手をぬつとおかあさんの前へつきだしました。
おかあさんは、おさつの熱いやつを一切れ、その上へのせました。
にいちやんは、左手をぬつと出し、
「もう一つ、そつちの。フアフアフアフア」
そして、もう一つ、玉葱とえびのかきあげをにぎると、モガモガしながら出ていきました。
…神社の境内へいそぐにいちやんのうしろを、風のリボンが…

おとなになつた今でも境内で目をつぶると、風のリボンが流れていきます。耳をすませば、風のリボンがかけていきます。

2017.06.15「中野本町の家」
今から恰度二十年前、千九百九十七年二月、伊東豊雄設計〈中野本町の家〉が取り壊された。見とどけたのは設計者自身である。

初めて〈WHITE U〉の異名を持つこの家の平面図を見たとき、中庭を池にしたらどうだらうと思つた。真ん中に小さな島をつくり、そこにミース・ファン・デル・ローエの椅子を置く。ヴィラ・アドリアーナの海の劇場の縮小版である。水は太陽や月の光を反射して、風で細波がたてば周囲の白い壁に光のゆらぎが映るだらう。映る模様は絶へず変化し、変幻止むことがない。
池の中心で、ラヴェルの〈オンディーヌ〉などをきいてはいけない。ドビュッシーの〈水の反映〉ぐらいにとどめておくべきだらう。不測の事態を避けるためである。
屋内でワーグナーの〈トリスタンとイゾルデ〉をきく。曲面の壁にはどんな音響効果があるだらうか。

上空からのこの家の写真を見ると、巨大な便座にも見えるし、施主の長女はこの住居を墓石にたとへてゐる。なるほど、夫に先立たれた施主が、無意識に墓石をたてたと思へなくはない。それなら売りに出されることは、決してなかつただらう。

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2017.07.25「一閑人」
閑有居主人黒崎は座卓を前に茫然としてゐる。体調がすぐれないのは、夏が来るといつものことだが、今年は七十代も半ばが過ぎて気力も湧いてこない。
ぼんやりと来し方のことを思つた。趣味が昂じて骨董商の道にはいつて半世紀になる。気がついてみたら、ここら辺の業界では最古参になつてしまつた。今まで目の前を通り過ぎていつた骨董は数え切れないが、手元に置いてあるものは一つもない。
顔をあげて、廊下に置いてある茶箱に目をやつた。三日前の業者だけの骨董市で、これも古参の稀品堂が言つた。
「黒崎さん、侠気をだして、この男の持つてきた物を一纏めにして、買い付けてくれないか。私の親戚筋のものだが、新参者でまだ売買が成立していないんだ。なかには二三いいものもあるはずなんだが」
侠気には縁がないが、黒崎は品物の隣に置いてある茶箱をみて、「どうだい、その茶箱に入れてくれたら、そっくり買おうじゃないか」と言つてみた。
その茶箱が廊下にある。
蓋を開け、ざっと見渡して一つの盃に目をとめた。染付の一閑人盃である。この種の盃をみると何時も、学齢前の自分が見た光景を思ひだす。
七十年前、この町は記録的な雨に見舞はれた。台風が去つた直後に、子供の黒崎は自宅を出て、南にある神社の前をとおり橋を渡ると、信じられない光景があつた。そこには普段あるはずのない擂り鉢のやうな大きな穴が開いてゐて、人間が両手を縁にかけたまま、一閑人盃の唐子の姿勢で息絶えてゐた。橋のところで堰き止められた激流が路の方に逸れ、地面に大きな穴を抉つたらしい。その人はお母さんだつた。背中に負ぶい紐でくくられた乳児も死んでゐる。黒崎の記憶には、その場所には誰も人影は見なかつたし、行き帰りの道でも人に出会つた記憶がない。

黒崎は、あっ…と声を上げさうになつた。このことは両親や兄弟はもとより、友人知人誰にも話したことがない、…その事に今気づいたからである。どうして誰にも言はなかつたのだらう。とすると…あれは本当にあつたことなのか、なかつたのとなのか。いままでの自信が急速に失はれていく。黒崎は眩暈のやうなものに襲はれた。

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2017.08.27「私の指が、ソーセージだなんて」
スビャトスラフ・リヒテルは、1997年8月1日に亡くなつた。今年で没後20年になり、いくつかの記念ボックスが発売されてゐる。私も追悼の意味をこめて、ブリューノ・モンサンジョン著〈リヒテル〉から、冒頭の文章を引用してみる。

「いつたい誰がそんな話をでっち上げる事ができたのかと訝るくらいまちがった、突拍子もないことが、私に関して話されています。そんな話を広めるのが、ときには私の知人のこともあります。ある人が言うには、『指がソーセージのように太いので、黒い鍵盤と白い鍵盤の間に十分なスペースがない』と嘆いたそうです。一体そんな話をどこで仕入れてきたんでしょう。たしかに手は大きいのですが、指は逆にむしろ細いんです」
ここには〈ありのままのリヒテル〉がゐる。何度読み返しても面白い。

135ページに、リヒテルによると〈自分を威圧した〉と言ふプロコフィエフが、右手を24才年下の妻の腰にまわした、カメラ目線の写真が載つてゐる。いかにも威圧しさうな雰囲気だ。
彼の作品では、20曲の小品で構成されたピアノ曲集〈束の間の幻影〉がすきだ。1917年作曲、ペトログラードで1918年初演、同じ年東京にて作者自身で日本初演。〈束の間に私は世界をみる 移ろう虹のゆらめきに満ちた宇宙を〉

最後におまけ
〈親父は初め普通に作曲して、それをプロコフィエフ風にアレンジする〉と、彼の息子が言つたことになつてゐる記事を、むかし雑誌で読んだことがあるが…本当かなぁ。

プロコフィエフ

2017.10.04「エドモン・ドゥ・ポリニャック公爵夫人のサロン」
私は一枚のCDを手にしてゐる。タイトルに〈ポリニャック公爵夫人のサロンより〉とあり、ファリャ《ペドロ親方の人形芝居》、ミヨー《オルフェの不幸》、ストラビンスキー《きつね》の三曲がカップリングされてゐる。何れも、ポリニャック公爵夫人の委嘱による作品であり、ポリニャック邸で初演された。ミヨーのオペラ〈オルフェの不幸〉は、ギャラリー5ー13〈浪の下にも都のさぶらふぞ〉で、紹介したことがある。

アメリカ人でミシン王であるアイザック・シンガーの娘ウィナレッタはパリにわたり、1893年、ポリニャック大公と結婚してポリニャック大公妃となつた。大公妃は莫大な財産と芸術に対する美意識の高さから、パリのいくつかの芸術サークルにおいて中心となる存在になつていつた。ラヴェルやシャブリエとピアノ・デュエットを演奏し、プルーストやコレットの相談にのり、ピアニストのクララ・ハスキルなどの創造的な女性達と親しく交つた。彼女は芸術家のパトロンとしてディアギレフのバレエ・リュスを支援し、フォーレ、シャブリエ、サティ、プーランク、クルト・ヴァイル他大勢の作曲家に作品を依頼し、それらの曲を自宅で初演した。リヒャルト・シュトラウスは友人であり、ラヴェルや六人組も彼女のために曲を書いた。サティの、プラトンの対話篇による、交響的ドラマ〈ソクラテス〉も彼女のために書かれ、1920年公爵夫人のサロンで初演された。ラヴェル〈逝きし王女のためのパヴァーヌ〉も、夫人に献呈されてゐる
折しもジャポニスムの時代である。プルーストのやうに、彼女も日本の水中花を楽しんだにちがひない。

2017.11.13「Do you know the way to San Jose」
脳科学の最近の研究では、アップテンポのジャズやポピュラー音楽をきくと、脳の血流がよくなると言はれてゐる。飯島真理の〈まりン〉など、タマにきくと弾むやうなリズム、メロディが心地よい。つぎに、マイルス・デイビスの〈Milestones〉をきく。これもいい。さらに血流がよくなつた。と…ここで気が変り、オスカー・ピーターソンのソロで〈Little girl blue〉だ。クラシック音楽浸けの自分の脳がほぐれていくのを感じる。これらのジャズやポピュラー音楽も、かけがへのない存在だ。
左手にタブレットをもてば、右の人差し指で、選曲は自由自在。今度はバカラックの音楽でもきいてみるか。まず〈Do you know the way to San Jose〉から。タン・タン・タン・Do you know the way…、気分はたちまち自分の二十代後半にとぶ。

〈サンホセへの道を 知つていますか〉
〈長いこと 離れていたので〉
〈道を間違へたり 迷ひそうなんです〉
〈サンホセへの道を 知つていますか〉
〈サンホセに戻つて 心の平和を取り戻したいのです〉

あなたは サンホセへの道を知つていますか?

2017.12.18「怪物ワーグナーと天才ベルリオーズ」
バート・バカラックの作曲技法上の師ダリウス・ミヨーは、アンチ・ワグネリアンであつた。
「ウエーバーまでのドイツ音楽の伝統が、どうしてワーグナーのような怪物を生み出したのか。ワーグナーの全作品は、ベルリオーズの一頁に如かず」
ユダヤ人である彼のワーグナー嫌いは尋常ではない。しかし、彼のベルリオーズに対しての高い評価はどうだらうか。

五味康祐「人間の死にざま〜愛の音楽」
「ベルリオーズは、私にとってはどうでもいい音楽だ。〈幻想〉は言うも更なり、〈レクイエム〉〈ファウストの劫罰〉…どれ一つとして感動して聴いたためしがない。ワグナーと何という違いだろう。ベルリオーズを〈天才〉と称する輩は、一体どこに耳を持っているんだろう」

ここまで言はなくても……と思ふが、私にしても〈幻想交響曲〉以外の曲は、タイトルは知つてゐても、ろくに聴いたことがない。
ベルリオーズの音楽に関しては、リヒテルの意見が興味深い。些か微妙ではあるが。

リヒテル〈音楽をめぐる手帳〉より「ベルリオーズ〈ファウストの劫罰〉を聴いて」
「きっと偉大な芸術家なのだろうとは感じているが、でも彼が音楽の分野に占めるべき十分に偉大な場所というのはないのではないか。ただひとつの例外は〈レクイエム〉である」
リヒテルの意見が、妥当なところかもしれない。

私が中学生の時の運動会には毎年、ワーグナーの〈ローエングリン第三幕への前奏曲〉がながされた。この曲や、有名な〈ワルキューレの騎行〉をふくむ〈指輪〉四部作などを聴いてゐると、由来のわからない力が湧いてくる。私たちの内面にうずくまる何ものかに、ワーグナーが点火したのである。曲が終つたら、この握りしめた拳を、どうやつて開けばよいのか。ワーグナーはその方法を教えてはくれない。

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