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2016.01.21「琳派は日本の伝統です」
二千〇二年、田中一光が亡くなつたとき、雑誌「太陽」が彼の特集をし、光琳について数名のデザイナーにアンケートをとつた。田中は琳派に強い影響を受けてゐたからである。そのなかに、昨年の五輪エムブレム騒動の主役、佐野某の回答があり、「自分は琳派については、よく知らなかった」とのべてゐる。彼の正直さは認めやう。しかし、デザインや画に関心がある日本人なら、光琳や琳派について、勉強してゐるのが普通である。彼の制作したエムブレムがお粗末だつたのは、伝統欠如の哀れな結末なのだらう。

2016.03.07「キューカンバー・サンドウィッチ」
キューカンバー・サンドのレシピは、作り手の好みでさまざまだが、私の思ひ出の中のそれは、伊丹十三の紹介するレシピとおなじ、一番シンプルな作り方だつた。

「胡瓜のサンドウィッチというと、みなさん、キュウリを薄く切って、マヨネーズをつけてパンにはさむとお考えだろう。違うんだなあ、これが。マヨネーズじゃなくて、バターと塩。こうこなくちゃいけない。パンは食パン、このサンドウィッチに限り、パンがおいしい必要は少しもない。食パンをうんと薄く切り、耳は落としてしまう。これにバターを塗りつけ、薄く切った胡瓜を並べ、塩を軽く振って、いま一枚のパンで蓋をする。これを一口で食べやすい大きさに切って出す」伊丹十三「女たちよ!」

この文章を引用するため、「女たちよ!」を繙いてゐると、雑誌の切り抜きが出てきた。「食道楽」といふタイトルの伊丹のコラムである。

「牛肉についていうならば、私は・・・の肉の刺身を愛好するものである。大蒜醤油、あるいはレモン醤油で食す。絶佳であります。そうして、こういうものを日本酒のオン・ザ・ロックスかなんかでやる時なんだなあ。自分がもしかするとしあわせなのではないか、などと考えたりするのは」
〈もしかするとしあわせなのではないか〉とは、伊丹らしい、彼独特の表現である。
何事にも手を抜かず、いや、手を抜くことが出来ず、世に認められた成果をあげながら〈もしかしたら〉といふ疑念がいつも頭の中にある人生は、辛かつたと思ふ。

2016.04.28「レチタティーヴォ・ファンタジア」
サン=テグジュペリ原作、ダラピッコラ作曲の〈夜間飛行〉といふオペラがある。一度聴いてみたいが、未だ果たせない。CDは発売されてゐないやうだ。同じ作曲家の〈囚われ人の歌〉は時々聴いてゐる。
先日、フランクの〈ヴァイオリンソナタ〉を何回か聴いてゐると、なんと、ダラピッコラ〈囚われ人の歌〉にむすびついてしまつた。

まづ、ピアノが荘厳なパンテオンを構築し、ヴァイオリンの祈りがはじまる。フランクの〈ヴァイオリンソナタ・第三楽章〉は、囚われ人・メアリ・スチュアートの祈りだ。中心のオルクスから降り注ぐ光の中心に跪き、メアリは祈る。

おお、主よ、神よ、私の希望はあなたにある
おお、私の愛しいイエスよ、さあ私を自由にしてください
過酷な鎖、悲惨な刑罰のなかにあつて、私はあなたを切望する
私が疲れることによつて
溜息をつくことによつて
膝を屈することによつて私は讃へる
どうか私を自由にしてください

とんでもない幻覚である。作曲家には失礼な妄想である。でもこれからは、第三楽章を聴く毎に、この詩を思ひだすだらう。

2016.06.26「武満徹にさからつて」
立花隆「武満徹・音楽創造の旅」を読んだ。武満の発言から引用する。
「世の中には、どこへでも持って行ける音楽(西洋音楽)と、どうしても運ぶことのできない音楽がある」

邦楽やガムランは、持ち運べない音楽である。しかし武満がいふには、両者には大きな違いがあるといふ。

「ジャワ島やバリ島で聴いたガムランの、あの空の高みにまで昇るような音の光の房は何なんだろうか、と思う。私たちの音楽のどの部分にあのような眩いかがやきを見ることができるだろうか。陽光の木魂のように響くガムランの数々の銅鑼を聴きながら、私は邦楽器の音について考えていた。私が感じたことを率直に表せば、ガムランの響きの明るさとその官能性は『神』を持つ民族のものであり、日本音楽の響きは『神』をもたない民族のものなのではないか、ということであった」
「私は、日本の音が遂に至る地点は〈無〉であるように思う。邦楽のなかでの音は、その所属する音階を拒むもののようである。一音一音は磨きこまれ、際立つことで、反って音階の意味は希薄になり、それによって音そのものも無に等しく、自然の音ー固有の音によって充たされていながら全体としては〈無〉であるところの音…と見分けがたい状態にまで近づいていく」

ガムラン音楽を捧げる対象は、ヒンズーの神であり、邦楽の響を捧げる対象は、神道の神であると考へるなら、神を前にした〈去私〉が邦楽であるなら、日本の音楽にも神がゐるのではないか。竹林のさやぎや、虫の音に感応する日本人の音楽が邦楽である。

「私には、音楽のよろこびというものは究極において悲しみに連なるものであるように思える。その悲しみとは、存在の悲しみというものであり、音楽することの純一な幸福感に浸る時、それはさらに深い」武満徹

2016.08.05「ブラームスは好きですか」
立花隆「武満徹・音楽創造への旅」
ー若いころ、初めから現代音楽ばかり聞いていて、いわゆるクラシックの名曲はほとんど聞かなかったというはなしでしたね。
「そうなんですよ。バルトーク、メシアン、シュトックハウゼンまで聞いていました。とにかく、新しいもの新しいものと思っていたんですね」
ーそれで、古典的大作曲家のものはあまり聞かずに通りすぎてしまったとか。
「そうなんです。特にロマン派のものなんかあんまり聞いていません。毛ぎらいというか、食わずぎらいというか、ブラームスなんかバカにして全然聞いていなかったんです。ところが最近、ブラームスのよさに急にめざめまして、……」

以下、ブラームス「クラリネット・ソナタ」の素晴らしさに、話がつながつていく。
私も、シューマン、ブラームスなど、ロマン派を聞くようになつたのは、中年すぎからだつた。それまでは生意気な子供で、バルトーク、ウェーベルン、ブーレーズ等の現代音楽を愛好してゐた。
ロマン派受容の経過は武満徹とおなじでも、私には作曲の才能はない。作曲できない私が、サン・テグジュペリの「夜間飛行」をオペラにするとしたら、重要人物リヴィエールを「レティタティーヴォ」にする。これで決まりだ。

2016.10.14「深夜プラス…」
夢の途中かと思つた。目をあけて耳をすますと、微かにヴァイオリンの音が聞こえる。夢ではないやうだ。裏窓をあけて外を窺ふと、遠くに見える裏の家の、障子を開け放つた部屋が見えた。深夜の闇のなかで、そこだけが明るい。能舞台のやうな和室で、クロイツェルソナタを聞いてゐるのは、浴衣姿の男だつた。胡座をかき、うつむいて腕組みをしてゐる。第一楽章が終わると、音楽は途絶へた。あそこは精神科の医師の家だが、如何して深夜に、しかもこの曲を。

トルストイ「クロイツェルソナタ」 
「音楽が人の心を興奮させ、忘我の状態にさせてしまう。精神を高めるのではなく、ひたすら興奮させる作用をするだけだ。自分の本当の状態を忘れさせ、何か別の、異質な世界へと移し変えてしまう。
あのソナタは実に恐ろしい曲です。殊にこの初めの部分が…それに全体として、音楽というヤツは恐ろしいものです!音楽は霊魂を高めるような働きをする、と人はいいますが、それはノンセンスです、でたらめです!音楽は恐ろしい作用をします」

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