archive2014.01-12

2014.04.22「パール・ピアスは永遠に」
イラストレーターの安西水丸さんが、先月三月十九日に亡くなつてゐたのを知つて驚いてゐる。ふだん新聞を読まない私が、このことをネットの記事で知つたのは、今月四月十二日だつた。安西さんと面識のない私が感じるこのさびしさは、なにに由来するのだらう。安西さんは、私にないものを、すべてもつてゐる人だと思つてゐた。
ユーミンの十三枚目のアルバム「パール・ピアス」のイラストは彼が描いた。そのブックレットがうちの本棚の上に飾られてゐる。

「ぼくは安西水丸さんのファンです。いいものはいい、面白いものは面白い。美しいものは美しい。水丸さんの絵は、どれにも該当するんです。
そして彼の絵はのほほんとしている。一見、手を抜いているようにさえ見える。この『一見』というところがミソなんです。実は手を抜いているどころか周到に計算された『のほほん』であって、彼の作るものはふんわりと、あるいはじわっと、人の心に入ってきます。その上忘れられない何かを植えつける。油断がならない。真似しようとしても真似できるものではありません」
和田誠・安西水丸 共著「青豆とうふ」から、和田誠さんのまえがき

2014.06.16「鎌倉は小さき夢のあとゞころ」
今年三月の安西水丸さんの死亡記事で、彼が鎌倉に住んでゐたことを知り、すこしばかり失望した。誰も彼も鎌倉へとなびく。

最近「折口信夫対話集」といふ本を読んだ。そのなかに、昭和二十五年発行の雑誌に掲載された、折口信夫と小林秀雄の対談が収められてゐる。

折口「鎌倉を軽蔑する気風が昔はありました。〈鎌倉は小さき夢のあとゞころ。また頼朝の肩うつな。君〉鉄幹の歌ですが、そんな風に。私なども、鎌倉を一向よい処とも考へなかつたのですが、二十年この方、ちょいちょいと訪ねて來りして、何か段々古めかしさが加つて來たといふ感じがして來ました。その点やつぱり、世間の考える古典の時代がさがつてきたのじゃありませんかね。その影響を我々も受けると言つた……。古事記・源氏・宇津保なんといふ時代までは、我々若者として育つたころは、國學院でも扱つてゐたが、鎌倉時代以降は扱うことは避けてゐた」
折口が國學院に在籍してゐたのは、明治四十年頃だらうか。鎌倉には、現在では想像もつかない、さういふ時代があつた。

2014.08.30「ケチの顛末」
「頭の大きいお方は、ご発明だそうです。頼朝という人は、たいそう頭が大きかった。
〈拝領の頭巾 梶原 縫いちぢめ〉
むかし頼朝のしゃれこうべを見世物にしていたときがありました。
〈これは頼朝公のしゃれこうべ。ちこうよつて、ごはいとめられましょう〉
〈ちょっとうかがいますがね。これは頼朝公のしゃれこうべですか?〉
〈・・・そうです〉
〈頼朝という人は、頭が大きかったといいますが、これは随分小さいね〉
〈これは幼少のときの・・・〉」五代目志ん生

源頼朝の鎌倉幕府成立が、大陸とは一線を画した日本といふ國を生んだ。朝廷と幕府の併存がはじまり、明治維新まで約七百年間続いた。この体制は二権分立であり、政教分離といふ側面もあるだらう。
小林秀雄、吉田秀和両氏も、鎌倉の住民だつた。今では子供でも知つてゐる北大路魯山人は、昭和二年に、北鎌倉山崎の里に星岡窯を築いた。彼の作品には桃山の精神が宿つてゐる。

昔、知り合ひの骨董店で、魯山人作の備前の角皿五客を見たことがある。七十万円だつた。一目で惹きつけられたが、ケチな私は決心がつかず、一旦家に帰り、腹を決めて翌日店に電話を入れると、もう買はれた後だつた。今でも時々思ひ出す。お粗末な、吝嗇の顛末である。

2014.10.18「義山紅切子」
魯山人〈本名福田房次郎〉は、明治三十八年、縁あつて岡本可亭の内弟子になる。可亭は明治期東京の著名な版下書家である。岡本家では、家人が交代で食事当番をした。六歳の頃から、炊事に追ひ使はれてゐた房次郎は、これを幸ひとする。可亭は彼の整へる料理をことのほか喜んだ。彼はうまい豆腐を供するためには、手桶を携へ、根岸の〈笹の雪〉まで買ひに行くこともあつた。
私は以前、白崎秀雄「北大路魯山人」を読み、〈義山紅切子〉の件に影響を受け、魯山人の真似事をしたこともある。むろん〈紅切子〉とはいかなかつた。なお、岡本可亭は、画家岡本太郎の祖父である。

「彼の場合は、自らが美味をよろこぶに等しく、時としてはそれ以上に、他人をそれによって欣ばせることを目指していた。そのために、何をいかに作るべきかに腐心した。魯山人は料理によって、他に拠るべきもののない社会へ、つまり環境へ適応し、やがて又料理によって環境を形成したのである。
房次郎は昼飯の菜によく豆腐を求めて食べた。醤油と薬味は、朝食の前にととのえて、携えて行く。房次郎は豆腐を、あざやかな臙脂色の義山〈ぎゃまん〉の切子の鉢に入れて食べた。白く柔らかな豆腐は、堅い硝子の赤と相映じて、美しい。豪華でもある。
それは、房次郎が少し前、日本橋中通りの古玩店で購ったものである。おそらく、いわゆる古渡りの紅切子だったであろう。薩摩ガラスにも紅切子があるが、古渡り、つまり古い舶載品に比べると、色が淡い。魯山人のそれは、紅色が鮮やかで濃かった」

白崎秀雄「北大路魯山人」

2014.12.13「バルセロナの闇」
鈴木了二氏の「ミースの建築を写真に撮ること」といふ文章を読んで、面白かつた。少し引用してみる。
「〈ミースの建築を写真に撮るときに〉ファインダーのなかで垂直ー水平を整えられた光景は底抜けにどこまでも明るく、しかしその一方で、現場の足元から立ち昇る気配は不気味なほど暗いのだ。その裏返ったような世界。白日の闇。
ためしに、作品集や雑誌のグラビアなどに載ったミースの建築写真を見るとよい。それがキマッタ写真であればあるほどますます明るい、『陽光あふれる贅沢なロビー空間』といった趣を、図らずも醸し出してしまっていることに気づくだろう。しかしおそらく、そのシャッター音を鳴り響かせる当の写真家のまわりには、カメラの視覚から排除された不吉な闇が立ちこめているにちがいない。
そして、カメラ装置がいやおうなく立ち会わざるをえないこの『ギャップ』こそが、われわれに残された、いまだだれも跳躍を試みようとはしない『ミースの問題』ではないだろうか」

白日の闇があるとするなら、それは歴史の闇、世紀末の闇、ミースの虚無がもたらす闇だらう。闇があるとするなら、鬼も棲んでゐるにちがいない。彼は自国の歴史と伝統を、トラバーチンに閉じこめ、あらゆる軛から解放されて、当時としては超モダンな記念碑を設計した。サグラダファミリア教会は有名だが、バルセロナに行つたらまず、「ミースのバルセロナパヴィリオンを見よ」と言へるかも知れない。

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