archive2013.01-12

2013.03.11「少女たちの弾く音楽は」
〈画家ルノワールについての、息子ジャン・ルノワールの証言〉
或る日私は、モーツァルトのピアノソナタを弾かうとして必死になつてゐた。父は、不安さうな顔をして私をとめた。
「誰の曲だね」 
「モーツァルトですよ」
「それで安心した。ベートーヴェンじやないかと一寸心配になつたのさ」
私が驚いた顔をしたので、父はかう付け加へた。
「ベートーヴェンといふ男は、心の悩みだらうが、消化不良だらうが、ひとつ残らずわれわれに押しつけるのさ。私は彼にかう言つてやりたいな。〈あなたが聾だといふことが、私になんの関係があるんです〉、とね。それに音楽家にとつて、聾なのはすばらしいことだよ。ドガが一番いいものを描いたのは、もう眼がよく見えなくなつてからだからね。モーツァルトは自分の心配事などかくしておくだけの差恥心を持つてゐた。彼は、自分自身など超えていると思はれる音によつて、私を楽しませ、感動させやうとした。それでゐて、ベートーヴェン以上に、自分といふものを私に語つてゐるのさ」

モーツァルトとおなじに、ベートーヴェンも自分自身をこえて、はるかな高みへと到達した作曲家である。しかし幸福の画家ルノワールは、彼の音楽を好まなかつた。画家はピアノを弾く少女たちの姿を、度々描いてゐるが、彼女たちの弾く音楽には、好きなモーツァルトのピアノソナタが相応しいのだらう。

2013.05.25「ジャンヌ・サマリーの肖像」
ルノワールの絵で、「ジャンヌ・サマリーの肖像」といふ作品がある。画中の彼女は蕩けるやうな二重の眼、夢をみてゐるやうな表情だ。
随分昔に、ジャンヌと同じ美しい二重の眼をした女を知つてゐた。或る日私が、リヒャルト・シュトラウス「薔薇の騎士」のレコードをかけると、彼女は蕩けるやうな目になり、夢みるやうな表情をうかべてゐた。このことから推測するに、ジャンヌの表情もこのオペラをきいてゐるときのそれにちがいない。

「これを書いたというだけでも、リヒャルト・シュトラウスは、古今最大のオペラ作曲家のひとりに数えられるに値する。と同時に、この音楽はモーツァルトにもヴァーグナーにもない、全く近代的なオペラの味わいなのである。
この霊椀は、第三幕で、さらに、元帥夫人、オクタヴィアン、ゾフィの三人による二重唱、三重唱のなかで、違った味わいのなかに、くりかえし展開される。
そうして、この終幕では、この劇の主人公が、実は男爵でもオクタヴィアンでもなくて元帥夫人にほかならないことが、ついに…『聴衆、ことに女性たちに充分に感じられ、元帥夫人の姿とともに彼女たちも劇場を立ちさってゆく』ことになる。
彼女には、第一幕と第三幕に、比類のない明察と恋の入りまじった歌が与えられている。

〈今日か、明日か、それとも明後日か。そう前に自分にいってきかせていたのに。これはどんな女にもふりかかつてくることのはず。私にもわかつていた。自分で誓いをたてたはず。落ちついて耐えていこうと〉

〈正しいやり方で、あの人を愛そうと誓った。彼が他の女性を愛したら、その愛を私が愛せばよい。でも、それがこんなに早くやってくるなんて〉」

吉田秀和「私の好きな曲〜ばらの騎士」

2013.08.03「ふたりの母」
〈天沢〉草稿とは直接関係はないけど、カムパネルラの母親の問題ね。これは明らかに現世にカムパネルラの母親は生きている。だから最後のところでカムパネルラが「あれはぼくのお母さんだよ」というのは前世のお母さんなんだ。
〈入沢〉現世のお母さんと前世のお母さんがそこで切り結ぶわけですよ。だから面白いんだ。
〈入沢〉「カムパネルラはさうは言つてはゐましたけれども、ジョバンニにはどうしてもそれがほんたうに強い気持ちから出てゐないやうな気がして、なんともいへずさびしいのでした」というのがもとの形だった。それを鉛筆手入れで「ああきつと行くよ」ーそのあとに『ああ、あすこの野原はなんてきれいだらう、みんな集まつてゐるねえ、あすこがほんたうの天上なんだ。ああ、あすこにゐるのが僕のお母さんだよ』カムパネルラはにはかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました」というのをあとから加えている。 対談〈入沢康夫、天沢退二郎〉「ユリイカ」〜「銀河鉄道の時」より

「二人の母」の他にも多くの興味深い問題があるが、すべて積み残して、「銀河鉄道の夜」はこれで終りとする。
現在関心のある作品は「やまなし」である。「クラムボン」である。「クラムボン」とは何かについては、泡説、アメンボ説、光説、解釈してはいけない説もあるし、人間といふ説もある。私個人としては、「生きとし生けるもの」のことだと思つてゐる。

2013.08.30「三題噺」
ジブリ作品「風立ちぬ」が、先月七月二十日に公開された。手書き風サブタイトルの、「生きねば」のとなりに小さく「堀越二郎と堀辰雄に 敬意をこめて」の明朝体。「強引に二人を結びつけてしまつた。でも、仕方なかつた。ごめんなさい」といふ、宮崎駿のひとり言が聞える。
甘木氏のブログ、「風立ちぬ」を鑑賞後の批評。

「本来なんの接点もなかったはずの堀越二郎の人生と堀辰雄の作品も、ひこうき雲という沈頭鋲なら接合できちゃうわけです」

「ひこうき雲という沈頭鋲」はうまい。甘木氏に座布団一枚進呈。
「風立ちぬ」は、宮崎氏が自分に出題し、自分で演じた「三題噺」だらう。迷惑な話だ。

2013.10.25「五万円を捨てた話」
先日、アクアリストの和泉克雄の名前をグーグルで検索し、二千一〇年、相模原市において、九十二歳で没したのを知つた。
以前、目黒にあつた和泉熱帯魚研究所を訪ねたことがあつた。ごみごみした街並みを抜けると、戦前からの仕舞屋風の研究所に辿りついた。和泉氏は不在だつたが、彼の息子らしい無愛想な若い男がいた。和泉氏は狷介であるといふ噂があつたが、私にとつて彼は、水草と熱帯魚の世界の先生であつた。彼の著作「水草のすべて」は現在稀覯本になつて、ネットオークションにだすと五万円以上の値がつくらしい。私も持つてゐたはずだが、探しても見つからないので、資源ゴミにでも出してしまつたのだらう。
水草が繁茂し、魚たちが元気に泳ぐ水槽は、何物にも代へ難い。だが今の私には、水槽を管理する気力、体力がない。したがつて「水草のすべて」があつても、役に立つことはないだらう。

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